死の飴玉を売る人たち
死の旗を振る学者と知識人と政治家、「非常事態宣言」に憧れる宰相、
国民をロボット兵士に仕立てる軍人と政治家、軍需産業経営者、
儲けは俺のもの、何が悪いか、の「類人猿=ニンゲン」と鼻紙のような
投票用紙、このままでは滅びる地球、ETC
円の侵略史
新1万円札になった渋沢栄一、国立第一銀行の生みの親だが、
その後の軍部への協力は、大陸への日本領土拡張を「国民の夢」
とした。一方京都学派を中心とする学者らは、死ぬことを
「国民の栄誉」「逃れ得ぬ神の定め」と宣伝しまくった。
金と夢、その幻影は、今から5〜6世代後には現実となる、
温暖化による地球の生物崩壊の時まで消えないだろう。
円の侵略史
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「円の侵略史 島崎久彌著 1980年 刊
ーー円為替本位制度の形成過程ーー
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🦊キツネは経済音痴であるから、(偉そうに言わなくても)この手の
専門書には歯が立たない。大体「侵略史」かと思うと、どうやら、
「我が国植民地銀行群の形成過程」が本旨であるらしい。単行本430ページ
に及ぶが読みにくいということは全く無い。ただ、こちらに経済の知識が
ゼロといことで、別に初心者向きの解説本をつまみ食いしつつ、著者には
申し訳ないが、「侵略史」部分だけをまとめてみたが、他にそのような研究
は少ないらしい。
島崎久彌・・1953年東大法学部卒。東京銀行勤務を経て、関東学院大学
経済学部教授
「はしがき」より
「本書は、1878年の第一銀行の韓国への進出に端を発し、太平洋戦争
下における『大東亜金融圏』の形成に至る我が国の植民地、金融、通貨政策
pの軌跡を鳥瞰するとともに、それの矛盾が深化していく過程を実証的に
分析しようとしたものである。」
「序」より
「家永三郎教授が指摘されたように、太平洋戦争は、満州事変以来の一連
不可分の連続行為であり、通貨、金融面においても、満洲中央銀行の創設を
契機として達成されるに至った満洲の幣制統一は、その後の対華北金融工作
から大東亜金融圏の形成に至る一連の円系通貨圏形成過程の橋頭堡をなす
ものであった。しかしながら満洲中央銀行の創設は、それに先立つ
『鮮満金融一体化』構想の副産物であり、それの原点は、さらに1878年
における第一銀行の韓国進出に遡ることができるのである。しかもその
ような一連の対外金融侵略のプロセスは、純然たる政治的な事由に基づく
ものとは考えることができないのであり、経済的な動因は、政治的な
モチベーションと交錯し、渾然として政治と一体をなしていたのである.
そのような観点から本書では、満州事変の勃発する以前の時代に遡り
ながら、大東亜金融圏の形成に至るまでの我が国対外金融、通貨侵略の過程
を考察してみる ことにした。」
p5 我が国植民地銀行群の形成
(台湾銀行は、1899年8月に創設された)「台湾銀行の創設目的は、
1897年の台湾銀行法に掲げる如く、『台湾の金融機関として商工業
竝びに公共事業に資金を 融通し、台湾の富源を開発し経済上の発展を図り、
なお進みて営業の範囲を南清地方及び南洋諸島に拡張し、これらの諸国の
商業貿易の機関となり以って目的となす。(中略)
又台湾は我が本土と遠く隔離せるが故に経済上同島の独立を計るは最必要
にして、一朝事あるに当たりても能く経済上の独立を維持し得べき方策を
施策するを要す。又台湾に於いては、内外の貨幣雑然流通し、幣制殆ど紊乱
の極に達せるを 以って、台湾銀行をして弊制整理の任にあてしめんとす』る
にあった。
元々台湾銀行は2つの顔を持っており、一つが台湾島内の金融機関としての
役割であったとするならば、今一つは外国為替銀行としての機能であった。
台銀は、単なる台湾の中央銀行として兌換券の発行や幣制の整理、あるいは
国庫事業を取り扱うだけではなくて、産業資金の供給と政府事業の経営を
支援するとともに、手形割引、勧業担保貸付、不動産抵当貸付等の多様な
業務を営むことが可能であり、いうなれば『日本銀行、勧業銀行、工業銀行
の職務を一身に兼併』していたとも言えるのである。」
🦊この記事によれば、「なお進みて南清、南洋諸島』に拡張し、とある
から、いわゆる「南進」は、軍部の暴走なんかではなくて、最初から
大東亜共栄圏構想に組み込まれていたのがわかる。その構想を牛耳っていた
のがどのような資本家、政治家たちなのか、この本にはあまり出てこない。
p21 台湾の幣制整理
一人台湾だけではなくて、我が国が帝国主義的な海外進出を試みるに
当たって、直面した金融面における最大の問題は、現地における幣制の
統一であり、華興商業銀行券の発行や、太平洋戦争下における現地通貨
表示軍票の導入を除き、ほぼ一貫して踏襲された政策は、日本と同一の
貨幣制度を現地に移植することによって、単一の円系通貨圏を形成し、
それを拡大しようとしたことであった。」
「ちなみに1895年以前の台湾における幣制は、その当時の清国と同じく
紊乱を極めており、元を計算単位としていても、現実に流通する貨幣は、
百数十種類にも達していた。それらは馬蹄銀(官鋳と私鋳があり、巨額の
金銭取引に使われていた)、銀貨(清国各省の官鋳の制銭及び北京官鋳の
葉銭ならびに民間で私鋳された私銭の3種類があった)に大別された。
紙幣は殆ど発行されていなかった。
それら各種の貨幣の中で最も流通性に優れていたのは、メキシコ銀貨などの
外国 銀貨と、香港、広東などから流入した銀貨であった。日本の一円銀貨も
対岸の中国本土から流入していたが、日本政府が軍事費の支払いにあてる
ため、多額の日本銀行兌換券(金又は銀と交換できる日銀発行の紙幣)、
一円銀貨及び補助貨幣を持ち込んだため、 通貨の混乱は、さらに一段と
増幅された。・・
台湾銀行券は、当初から日本銀行券を発行準備としなかったのが特色で
あり、発行にあたっては、同額の金銀貨及び地金銀を必要とするなど、厳格
な規定を設けるとともに、総督府も銀行券の使用を住民に諭告した。しかし
ながら台湾では、銀行券の使用に馴染みが薄く、加えて北清事変などの政治
的な不安が頻発したために、銀行券の流通は順調ではなかった。さらには
1902年から1904年にかけて金銀比価の変動が激化するに伴って
投機が発生し、内地との交易や台湾の財政などにも多大の支障をきたすに
至った。ついには島内の銀行までが投機的な操作を実施し、台銀も巨額の
損失を被ったため、台銀は「金銀較差勘定」を設けて損失が発生した場合の
補填を図るほか、貸出や預金の制限を断行した。その様な非常手段をこうじ
たにもかかわらず、台銀は損失を防止することができなかったため、金銀の
法定比価の廃止を求めようとしたが、台北商工相談会などは、これに対して
猛烈な反対を行った。・・
台湾が台湾銀行法の改正によって金本位制に移行したのは、1906年2月の
ことであり、銀貨の引換期限は1909年の4月、銀券の引換期限はその年の
3月末日と定められた。台湾における金本位制度の導入は、三井物産、
鈴木商店、湯浅商店など 内地資本の台湾進出を促すことになり、それに
対応して台銀券の保証発行限度も、500万円から1000万円に引き上げられ
た。のちに台銀の内地向貸出と預金の残高は、第一次世界大戦中に、島内の
それを凌駕したが、台銀は鈴木商店の機関銀行と化し、(大震災後貸出の
過半を占める鈴木商店の事業、投機資金需要に応ずるため、コール・マネー
に依存し、震災手形により延命を図った)鈴木商店の破綻と共に、一時休業
を余儀なくされるに至った。
次に台銀の今一つの側面である為替銀行としての側面を一瞥してみることに
するが、
台銀は創設の当初から「帝国南進策」の起点であり、「南門の關鍵」と
目されていたのである。一例として、「為替及荷為替業務」は、台銀法第5条
第二に掲げるところであったが、時の民生長官後藤新平は、台湾の通商貿易
関係を、1️⃣内地との関係、2️⃣南洋諸島との関係、③対岸との関係に分け、
「これらの内最も重要にして急務なるは対岸との通商」であると考えて
いた。その当時の児玉総督の台湾統治とは、要するに対岸経営にほかならな
かったのであり、児玉がそれの第一弾として提唱したのは、
台湾銀行の廈門支店設置であった。その後台銀は、香港、福州、汕頭、
広東、上海に支店を設けたほか、さらには進んで長江沿岸の華中の要地に
漸次営業所を開設した。これら台銀の華南、南方への進出は、第二代頭取
柳生一義の英断によるものであり、当時上海は、正金の領分とされていた
めに、総理や大蔵大臣にまで工作を行ったが、時の総理大臣桂太郎からは
「度々上海までだぞよ」と念を押されとのことである。又1905年には
廈門において銀票、その翌年には福州において支払手形を発行したほか、
取引の不便を除くため、円銀の流通に努力した。日本が廃貨した一円銀貨を
華南やシンガポールにおいて、引き続き使用させるため、台銀にその任務を
遂行させようとしたのである。・・
ちなみに大正期における台銀の対中国投資残高は、1916年(大正7年)
に、 5千800億円を記録したが、それの原資としては、預金部資金に依存した
だけでなく、華南の支店において、退職官吏等の資産家を対象とする利付
定期預金を発行した。
さらには1916年から1918年にかけて信託預金を開発し、第一次
世界大戦中に蓄積された内地資本を吸引して、華南と南方に対するの投資
活動を積極的に展開した。それと並行して台銀は、1899年の神戸支店開設を
皮切りとして、大阪、東京、横浜、門司に営業所を開設すると共に、大阪
支店を中心として輸出組合を結成して、中小商工業者の貿易を振興した。
台銀が外国為替業務に進出したのも、同じく柳生頭取の時代であり、柳生は
とりわけ中小商工業者のために、南方の市場を開拓することをもって使命と
した。・・
台銀は、輸出金融の供与にとどまらず、自ら倉庫を建設し、華南と南洋に
おける各種の調査や輸出先商社の紹介、あるいは注文の斡旋等を行った。
その様な台銀の地道な為替業務の開拓は、大正期におけるメイン取引先、
鈴木商店(台湾の樟脳、砂糖販売により、個人商店から脱皮し、一時は
三井、三菱をも凌ぐ勢いさえも示した)の躍進とも相まって、台銀の為替
取引シェアーを急激に拡大させることになったのである。
(中略)
その様な状況の中で台銀は1912年に開設されたシンガポール支店を皮切り
として、バンコック、ラングーン及びジャワの各地に次々と支店を開設し、
金融面からの南方
関与を深めていくことになったのである。故矢内原教授の言葉を借りるなら
ば、「台湾銀行は台湾の植民地銀行である。けれどもそれに止まらない。
台湾を基礎とせる我が国資本の帝国主義的発展の機関である。朝鮮銀行が
我が北方帝国主義銀行であるごとく、台湾銀行は南方におけるそれである」・・
しかしながら台銀は、西原借款(1917年、寺内内閣の時に、首相私設
秘書の西原亀蔵のお膳立てで、段祺瑞政権に与えた1億四千五百万円の借款。
台銀は、朝銀日本興業銀行と共にこれに関わっていた)の回収不能に加うる
に、鈴木商店の倒産により、昭和の初期には深刻な経営の危機に直面した
が、その様な状況の中で植民地銀行のあり方が論議され、台銀券、朝銀券と
日銀券との統一論が再燃した。それの急先鋒となったのは、時の大蔵大臣
高橋是清であり、高橋は議会において、これらの植民地銀行が「今まで種々
国家に迷惑をかけた主なる原因は発行権があるため、金が自由になりすぎる
点にある」とのべ、さらに「我が国全体としても通貨発行権を
中央銀行に統一しておかなければ金融や資本の統制が出来ない」と主張し
た。とりわけ高橋は朝銀券に対して、厳しい態度を示したがその背景には
単なる金融コントロールの必要性だけではなくて、後述の様に軍部と結託
した朝銀の侵略主義に対する反発が多分に秘められていたものと見られる。
日銀も統一は時間の問題であるとの談話を発表したが、高橋蔵相が
二・二・六事件の凶弾に倒れたために、この問題は未解決のまま
棚上げされることになったのある。
p37 朝鮮銀行の形成
1910年の8月韓国の併合により、朝鮮銀行(以下朝銀と略称)は、名実
共に朝鮮半島における中央銀行としての地歩を確立したが、朝銀は一人韓国
のみならず、軍部の満洲、華北侵略を金融面から幇助するための最も積極的
なプロンプターとなったのである。しかしながら朝銀は、韓国の植民地化を
契機として創設されたものではなくて、それの前身は、1909年に設立
された韓国中央銀行であり、それはさらに1878年(明治ー11年)に進出
した第一銀行の韓国支店に遡ることができる。その様な意味で朝銀の歴史
は、文字通り我が国の大陸侵略政策の金融史にほかならなかったのである。
第一銀行が1873年に創業を開始してからまもなく、1878年にその
支店を韓国に設置した理由は、1876年2月に成立した韓国との修好条約に
基づいて、日本の政府が、韓国との間における通商の開始、我が国通貨の
韓国における流通、韓国産金の買い入れを企図するに至ったためである。
当初第一銀行はいち早く韓国に進出しようとした大倉組と提携して両替、
荷為替、貸付を実施しようとした。大倉組が釜山に支店を開設したのは、
1876年のことであり、それの契機となったのは日韓貿易の促進を意図
する大久保内務卿の要請によるものであった。しかしながら「日韓修好条約
付録」の第七款は、朝鮮における日本通貨の自由流通と日本人による韓銭
取引を認めているが、日本通貨と韓銭の交換を媒介する金融機関が存在
しないため、輸出業務では韓銭の処分に困り、輸入業務では韓銭不足に悩ま
されるという問題が生じ、大倉は渋沢と相談し、両者がそれぞれ2万5000円
ずつ出資し、計5万円の資本金で為替交換所を設立しようとしたのである。
ところが西南戦争後審議が持続される過程で、大蔵省が銀行以外の一般企業
との共同事業を許可しなかったため、第一銀行は単独で釜山に両替所
(のちに第一国立銀行釜山支店と改められる)を設立したほか、1880年
には、砂金の買い入れを兼ねて、元山にも出張所を設立した。(中略)
前述の様に第一銀行の韓国支店は、海関銀行として一覧払い手形の発行を
認められた上、やがては、韓国の幣制改革を推進することによって、韓国に
おける中央銀行としての地位を確保することになったのであり、次にその
過程を簡単にレビューしてみることにしよう。
第一銀行の頭取渋沢栄一は、1894年12月、時の大蔵大臣渡辺国武の諮問
した事項の内、韓国の貨幣制度および銀行制度については、開港場における
本邦の銀行、商店に委託して、開港場に流通する銀行券を発行させることが
望ましいと答弁し、第一銀行が韓国において中央銀行的な機能を営む用意が
あることを明らかにしていたのである。
ここでその当時における韓国の貨幣制度を一覧してみると、李朝の末期まで
は米や布などの商品貨幣が主体であったが、李朝の末期には葉銭と称する
数種類の銅銭と真鍮銭が流通していた。1883年には、当5銭を新鋳し、
葉銭の一枚程度にしか相当しないものを、葉銭五枚に相当するものとした。
それだけでなく、その後も改鋳に改鋳を繰り返したため、(はじめは銅の
地金に亜鉛を加え、のちには銑鉄を下地に用いた)幣制は混乱し、物価の
騰貴と貿易の混乱が招来された。(中略)
1904年、日露戦争の開始にあたって日韓両国は、攻守同盟を締結し、
韓国政府は 新貨の鋳造を大阪の造幣局に委託すると共に、幣制の統一と
中央銀行の創設などの改革に着手した。まず韓国は、日本の幣制をモデル
として。金貨、銀貨、白銅貨、青銅貨を発行し、1905年の1月、第一銀行
に幣制整理の事務を委託した。幣制条例の施行に伴い、貨幣制度が紊乱する
基因となった白銅貨と葉銭の回収を行うため、日本政府は300万円の借款を
供与したが、葉銭は津々浦々まで流通していたために、回収が困難であり、
補助貨幣として一部それの通用力を認めざるを得なかった。同時に第一銀行
は、国庫金の取り扱いを認められると共に、第一銀行券は法貨として無制限
に流通することになった。
(第一銀行は、いち早く一覧払手形の発行に踏み切っていたが)1902年
には10、5、1円の銀行券を発行し、同行の在韓国店、出張所において同額の
日本通貨と引き換えることにした。一時は韓国政府の内部における親露派
官僚による妨害も見られたが、1904年の2月、韓国の幣制紊乱とそれに
伴う交易上の障害を考慮し、政府は第一銀行に対して無記名式一覧払銀行券
の発行を許可し第一銀行の韓国支店は、海関銀行として一覧払い手形の発行
を認められた上、やがては、韓国の幣制改革を推進することによって、韓国
における中央銀行としての地位を確保することになったのであり、次に
その過程を簡単にレビューしてみることにしよう。
ここでその当時における韓国の貨幣制度を一覧してみると、李朝の末
1904年、日露戦争の開始にあたって日韓両国は、攻守同盟を締結し、
韓国政府は 新貨の鋳造を大阪の造幣局に委託すると共に、幣制の統一と
中央銀行の創設などの改革に着手した。まず韓国は、日本の幣制をモデル
として。金貨、銀貨、白銅貨、青銅貨を発行し、1905年の1月、第一銀行
に幣制整理の事務を委託した。
幣制条例の施行に伴い、貨幣制度が紊乱する基因となった白銅貨と葉銭の
回収を行うため、日本政府は300万円の借款を供与したが、葉銭は津々浦々
まで流通していたために、回収が困難であり、補助貨幣として一部それの
通用力を認めざる得なかった。同時に第一銀行は、国庫金の取り扱いを
認められると共に、第一銀行券は法貨として無制限に流通することに
なった。
(第一銀行は、いち早く一覧払手形の発行に踏み切っていたが)1902年
には10、5、1円の銀行券を発行し、同行の在韓国店、出張所において同額の
日本通貨と引き換えることにした。一時は韓国政府の内部における親露派の
官僚による妨害も見られたが、1904年の2月、韓国の幣制紊乱とそれに
伴う交易上の障害を考慮し、政府は第一銀行に対して無記名式一覧払銀行券
の発行を許可した。(🦊一覧払い=手形の支払い期日を定めず、支払人は
それを提示された日に支払いを済ませなければならない=参着払い)それと
共に他方では、それの乱発を防止するため、銀行券の発行高に限度を設定
するとともに、発行規則を改正して、金・銀貨と日本銀行兌換券を正貨準備
とし、公債、商業手形などを保証準備とすることにした。
(この改革案は、韓国の幣制を日本と同一のものにしようとしたのが特色
である。そのためには韓国に対する日本政府の貸付によって、日本と全く
同じ韓国紙幣を発行させるのみならず、日本の貨幣を流通させようとした
ものである)。なお、鮮銀の正貨準備は、日銀券が圧倒的に大いなる部分を
占めており、日銀券のほかに、金貨・地金が現実に正貨準備に繰り入れられ
たのは、1904年以降のことであった。その原因は、金本位準備金を
ロンドンに設置させ、金のロンドン集中を企図したインドの金為替本位制度
と同じように、伝統的に韓国の金が内地に回収されたためであった。(中
略)
1909年、時の台湾統監伊藤博文が、一民間銀行に銀行券の発行をはじめ
として、中央銀行の業務を委ねることは好ましくないと主張したため、
韓国銀行(資本金は1000万円、韓国政府より一定期間、年6分の利子補給を
受けた。銀行券の保証準備発行制限額は2000万円とし、同額の金銀貨・地金
の他に日銀券を準備として保有しなければならなかった)が設立さた。・・
(なお朝鮮銀行法案の審議を経て、その結果として)朝銀は韓国韓国に
おける中央銀行としての役割を果たすだけではなくて、普通銀行業務を兼営
し、やがては「鮮満一体化政策」の尖兵として、満洲や華北に業務を拡大
していくことになったのである。
p47 日清銀行構想の台頭
我が国の中国大陸に対する金融侵略の構想が、明確な形で塑造されるに
至ったのは、
日清銀行の設立構想によってである。初次的な段階におけるその構想は、
清国における輸出市場の確保を目的とする貿易銀行の設立構想に過ぎなかっ
たが、時が経過するにつれて、当初の貿易銀行的な色彩は次第に褪色し、
居留民に対して起業資金を供給するための不動産銀行、あるいは鉄道の敷設
や鉱山の開発などを目的とする投資銀行や、利権獲得銀行などの典型的な
植民地銀行の創設を求める構想へと、変貌することになったのである。
(中略)
しかしながら日清戦争後は、我が国における商工業の発展と国民の海外雄飛
の機運あるいは条約の改正に伴う外国資本の流入に対する懸念などをバック
として、貿易の振興が叫ばれるに至った。その当時は、正金(横浜正金銀行
=貿易金融、外国為替決済に特化した銀行)の為替銀行としての機能が十分で
なかったことが一因となって、貿易金融機関の増設を望む声が彭湃として
台頭した。
1895年には、官民をあげて直輸入の促進を求める動きが活発となり、
農商務省は、東京および大阪の商業会議所に対して、海外直輸入業に関する
調査を依頼した。
それに対して東京商業会議所は、1896年に行った答申の中で、正金とは
別個の貿易銀行を創設すべきであると提言した。・・その年の10月には、
農商務省において、第一回農商工等会議が開催されて、海外金融機関の拡張
問題が審議された。席上山本亀太郎神戸商業会議所会頭は、正金神戸支店の
応対こそ改善されたものの、米国における正金の出張店などの役員が尊大で
あると非難した。結論としては、1️⃣正金を拡張して、香上銀行を凌駕する
ように育成することとし、台湾にも正金の支店を設置すること、2️⃣正金の他
に有力な貿易銀行があれば、それに越したことはないが、国家的な保護を
与えることは避けること、などが決定された。
その後、1931年には、またしても日清銀行の設立を求める機運が再燃
したが、その原因は、1931年の恐慌によるものであり、中でも日清戦争
の終了後、その基盤を確立するに至った紡績資本にとっては、対清貿易の
拡大が急務とされたためである。ちなみに「開港以後ほぼ1890年に至るまで
完成品たる綿製品の輸入国たる地位から半製品たる綿糸輸入国へと変貌して
きた我が国が、以後急速に輸入紡績機による工場制紡績業の支配的地位は
確立し」たのである。その結果清国に対する綿糸の輸出も急増し、1898年度
における清国(香港を含む)との貿易額は、1億円を超えると共に、
6000万円以上の出超を記録したが、そのうちの3分の1は綿糸の輸出による
ものであった。・・(中略)
p59 正金の満洲中央銀行化
正金の大陸における業務の拡大は、日清戦争後の紡績資本による輸出市場
確保の要請に対応するものであったが、その段階における正金の活動は、
為替銀行としての機能を大きく逸脱するものではなかった。しかしながら
日露戦爭後の
状況は、正金の大陸における活動を量的に肥大させたのみでなく、過渡期
とはいえ、満州における中央銀行および不動産銀行としての役割までも、
正金に負担させることになったのである。
また1905年の1月には、満州における軍票の価値を維持し、その流通を促
進する ために、牛荘支店が預金のほか、政府勘定による上海、芝罘向為替の
対価として 軍票を受け入れた。1904年には、軍票の流通高が5000万円に
近づくと共に、 それらの軍票が牛荘に充満したため、軍および外務省の出先
は、円銀との交換または 上海等に対する為替の対価として軍票を受け入れる
ことによって、それの価値を維持 すべきであると政府に上申した。それを
受けて政府は円銀を正金牛荘支店に交付して、 軍票との交換を実施させた
他、前述のような一連の軍票価値維持政策を打ち出すこ とになったので
ある。なお日清戦争の場合に軍票は、遼東半島で極めて少量用い られた他
は、事実上使用されなかったが、日露戦争にあたっては、我が国が 金本位に
移行していたため、早くからそれの準備を行なっていた。すなわち 1904
年の閣議において、日露間の平和が破綻した場合には、「軍用切符を 発行
し、円銀をもってこれを引換することとせん」との決定を行い、その翌日 に
は、「軍用切符取扱順序」を制定すると共に同年3月円銀の製造に取り掛かっ
た。 日露戦争の軍票には、「軍用手票」の文字が印刷され、清韓両国語に
よって 兌換文言が併記されていた。その額は、当初に予定されていた1億円
を上回り、 1億4800万円の軍票が発行された。(軍票は何回も回転するの
で、その残高は、 同行の計算によって回収されることになったのである)
それによって我が国は、 日銀券の増発や財政上の負担を免れ、大量の銀貨を
携行する場合に比べると 迅速な作戦行動をとることができた他、銀価格の
高騰を避けると共に、満州に おける通貨の整理をも促進することができた
のである。
p63 満州経営のトリオ
1905年の「軍用手票整理」によって「正金の一覧払手形の発行は、これ
をもって軍票を回収整理し、軍票の後継者として満州地方の公貨たらしめる
ことを期するものである」ことが明らかにされた。
(一方1906年に、桂太郎政府から訓令が発せられ、そこで1️⃣満鉄2️⃣正金
3️⃣興銀のトリオが日露戦争後の満州経済経営を担うことになった)興銀の
満州における貸付は、ほとんどが満鉄に限られていた。正金も奉天総督に
対 する貸付や、直隷省、郵電部公債の引受け、湖北省、西江総督、湖南省に
対 する貸し付けなどを実施した。・・ そのような政治的な借款が、大々的に
行われる反面、その当時の世論を沸騰 させたのは零細な本邦移住者の満州に
おける起業資金の供給をめぐる問題で あった。 (中略) 満州における幣制
統一作業の展開は、とりも直さず満州が、我が国によって 植民地化されて
いく過程に他ならなかった。その当時において、中国の幣制 統一は、日本の
み ならず欧米列強にとっても共通の関心事であったが・・中国の幣制整理が
一応の成果を収めるためには、1933年の廃両改元(国民党政権による)
を待たなければ ならなかった。 そのような状況の中で、満州における幣制も
同じく混乱を極めていたが、 それは単に 貨幣の本位と種類が多様であった
だけでなく、並行本位であったために 、各通貨の交換比率が、それぞれの
実質価値のみならず、受給関係によって 変動し、止まるところを知らなかっ
たためである。・・
p91 朝鮮銀行の満州進出
正金を実施機関として円銀による幣制の統一が挫折に追い込まれた原因と
して、 第一に満州と韓国の間に安奉線(鴨緑江を渡って奉天と安東を結ぶ)
が開通し鴨緑江鉄橋の完成、国境での関税の減税などにより、朝銀券が満州
に流入したこと、 また朝銀の積極的な満州進出工作があった。・・ その当時
の韓国は、対日入超を続けており、そのような片為替を満州における 輸出
為替の買取りによって是正することは、朝銀の経営にとって、緊急の要務と
も 言うべきものであった。朝銀の第2代総裁勝田主計は、「満州金融の整備
に関する意見」において、21カ条条約の締結に伴い、満蒙の開拓を推進
するためには、金融機関を整備することが必要であると主張して、次のよう
に正金を排除して、満州における中央銀行の業務は、これを朝銀に委ねる
べきであると提言した。朝銀の推進した「鮮満金融一体化」工作は、軍部と
綿業資本のバックアップのもとに、傍若無人の展開を示すことになった
のである。
p262==軍政方針の確立
太平洋戦争の開始にあたっては、作戦計画の策定と並行して、占領下の
行政、つまり軍政のあり方が当然に問題として論議されるに至ったので
ある。ちなみに 太平洋戦争の勃発する直前の1941年の11月には、大本営
政府連絡会議において、「南方占領地行政実施要項」が決定され、仏印と
タイを除く南方の占領地に対しては、差し当たり軍政を施行して、治安の
回復と重要資源の獲得、および作戦軍の自治を確保することになった。・・
参謀本部では、1941年の2月初め以降、第一部内に研究班を設けて、
「南方作戦における占領地統治要綱案」および「南洋作戦の場合における
財政、金融、通貨工作の根本理念について」などの要綱案を立案した。
その場合にも、戦争遂行に必要とされる資源と財力を欠いた我が国は、
略奪を軍政の基本方針とせざるを得なかったのである。その結果として
立案に当たっては、戦争の遂行に必要とされる物資の獲得を第一義とし、
戦費の支出を「占領地の犠牲に於いて極力節減するのみならずさらに為し
うれば占領地より戦費を回収して国力を培養」しようとしたために、
「占領地住民の福祉増進は終局における戦勝獲得後に於いて企画す」る
ことになったのである。本要綱案の作成者自身も「露骨に言えば、国際法の
許す範囲において技術的に占領地を最大に搾取し、我が戦費を節約し戦力を
維持培養とせんとする方針に基づき立案せられたるもの」であることを自認
せざるを得なかったのである。いなむしろ「戦勝を獲得するにあらざれば
八紘一宇の大理想も実現し難きをもって、占領地の住民もまた終局における
東亜共栄圏の恩沢に浴せんがためには、戦争間の苦渋は当然帝国民と等しく
之を甘受すべきなり」と断定して、侵略戦争の正当化を試みるに至った
のである。・・
軍政の実施は、陸海軍が協力して行うことになったが、奇妙なことには
陸海軍の縄張りが設定されたことであり、1941年に決定された「占領地
軍政実施に関する陸海軍中央協定には、陸海軍それぞれの主担任区域を次の
ように決定した。
1️⃣陸軍の主担任区域・・香港、フィリピン、英領マレー、スマトラ、
ジャワ、英領ボルネオ、ビルマ。
2️⃣海軍の主担任区域・・オランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、
小スンダ列島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアム島。
さらに1943年の5月には「大東亜政略指導大綱が御前会議において決定
され、
1️⃣日満華相互の結合の強化、2️⃣既定方針に基づくタイとの相互関係の
強化、3️⃣既定方針に基づく仏印との関係の強化、4️⃣ビルマ独立指導要項に
基づく施策の実施、5️⃣フィリピンの可及的すみやかな独立のほか、マレー、
スマトラ、ボルネオ、セレベスは、日本の領土とすることなどを決定すると
ともに、フィリピンの独立を待って、大東亜各国の指導者による大東亜会議
を東京で開催し、戦争を完遂する決意と大東亜共栄圏の確立を、内外に宣明
することになった。
1943年11月の5、6日には、大東亜会議が開催され、日本および満州、
中国、タイ、ビルマ、フィリピンの各国傀儡政権の代表によって、
「大東亜共同宣言が採択された。
p297 軍政下の通貨・軍票工作
「昭和財政史」第4巻によると、政府は開戦(太平洋戦争)前から、既に南方
の作戦地域に対する軍票の準備を行い、1941年の1月には早くも陸軍の要求
によって、仏領インド支那向けの印刷を開始した。(中略)
「宣戦布告1ヶ月前において軍票の製造に着手したのは、日華事変の初期
華中進出に際して軍票の用意がなかったため、やむなく日銀券を使用した
り、日露戦争当時の旧型式の軍票に手を加えて使用したりした苦い経験に
鑑みてのことであった」と岩武輝彦氏は述べておられる」
南方むけ軍票の種類は次のようであった。
グルデン軍票、ドル軍票、ペソ軍票、ルピー軍票、ポンド軍票、
これらの軍票は(ポンド表示の軍票を除くと)円と等価とされたが、
その理由は南方諸地域の通貨制度が複雑であり、それぞれの地域に適合した
為替相場制度を、直ちに設定することが困難なためであった。加えてそれら
の地域には、厳格な為替制度が施行され、日本と軍票経済圏との間には、
資金的な交流が遮断されていた。したがって、為替相場は事実上問題と
ならなかったのであり、むしろ軍の経理処理上の便宜第一義として、円と
軍票の等価交換が導入されたのである。
(主な南方軍政地における軍票工作の展開の一部を見てみよう)
1️⃣フィリピン
大戦の勃発する1941年11月末現在におけるフィリピンの通貨流通高は、
硬貨を含めて総計200万ペソに達していた。開戦に先立って米軍は、
コレヒドール要塞に、通貨6000万ペソ、金塊160万ペソ、銀貨1700万ペソ、
合計1億2000万ペソを移送し、撤退時には、之を焼却あるいは海中に投棄し
たため、コレヒドール島以外には、1億9000万ペソが残留しているに過ぎ
なかった。したがって、米軍の撤退後に残されたのは、1億2000万ペソで
あり、そのうちマニラには、1億ペソが残されていたと言われるが、その
大部分は、華僑の所持するところであった。(戦時中に発表された日本側の
文献によると、そのような通貨流通量の実質的な欠乏は、軍票の流通を促進
する格好の土壌を形成し、とりわけ退蔵や反日に伴う小銀貨幣の払底は、
少額軍票に対する需要を喚起するに至った)(中略)
(米軍が公官吏の俸給に対する支払いなどの目的で発行した緊急通貨を、
占領後の日本軍は無効とする宣言を、軍政部の名において発布した。しかし
ながら現地人は軍票を「モンキー紙幣」と呼んで、その価値を信用し
なかった。また偽造が行われたため、軍は厳罰をもって望んだが、軍票の
拠布は、物資の不足とも相待って、インフレを加速させた。
p178 華北のインフレと預け合い契約
(二・二・六事件により高橋是清蔵相が倒れて以来、朝銀は、陸軍と結託し
て、積極的な華北進出計画を展開した)日中戦争の勃発時には5店に過ぎなか
った朝銀営業所は、たちまち12支店27営業所に急増した。・・朝銀券の信任
を保つためには、正貨準備を補強し、物資を供給することが必要とされた
が、日本における正貨や物資の保有は十分ではなく、為替管理で武装された
円とは違って、朝銀券は「なんらの武器なく全く裸のままで海外へ出かけ」
るようなものであった。・・
第3次の華北通貨工作案として登場したのは、中国聯合準備銀行(略称
聯銀)の創設案であり、同年12月には、王克敏臨時政府(日本の傀儡政権)
首班が、河北省、冀東両銀行および中国、交通等の中国系銀行の代表者を
北京に招いて参加を求め、1938年の2月には、「中国聯合準備銀行設立
要項」が公布されるに至った。・・
聯銀の資本金は5000万円とし、半額払い込みであった。資本金の半額は、
臨時政府の出資であり、残りの半額は、民間の8行が現銀で払い込んだ。
臨時政府払い込みの日本通貨1250万円については、興銀を代表とし、正金
および朝銀によって代表される銀行団との間において、借款契約が締結され
た。聨銀はそれによって、正金と朝銀および満銀から、中国洋銀を買い入れ
た上、それを朝銀に預託した。しかしながらそのうちの350万円は、朝銀に
対する指定預金として、日本の内地に留保された。
さらに残りの900万円のうち180万円は、在外正貨として同じく日本内地に
おかれ、残余の720万円で購入された銀も、朝銀に納入された。そのように
して、三銀行の借款は、見せかけであっただけではなくて、実質的には、
朝銀が漁夫の利を得たことを示すものであった。そこでやむなく聯銀は朝銀
に預託されていた720万円の銀塊をロンドンに現送して、ポンドに換え、
ようやくにして聯銀券の正貨準備を確保する
ことができたのである。・・
一方、民間銀行の払い込みは、現銀によって行われ、中国、交通および、
河北省の各銀行が保有する現銀のうち、1250万円相当については、京津両市
現銀保管委員会から、銀国有令に基づいて、供出の命令が出された。しかし
ながらその保管については、従来どおり、それら銀行の金庫を利用すること
になったので、所有が委員会に移転されたとしても、それは名目的なものに
しか過ぎなかった。事実中国、交通両行の支店長は、本店との打ち合わせと
称して、香港に逃亡し、資本金の払い込みに応じないどころか、現銀を
海外に売却しようと試みた。しかもそれらの中国銀行は、営業の本拠を、
英仏租界においていたので、聯銀はなんらの強制的な措置をも講ずることが
できなかった。1939年の7月に東洋で開催された日英会議においても、
我が国はイギリスの租界内において保管されている現銀の引き渡しを要求し
たが、イギリスは本国が臨時政府を承認していないこと、1935年以来
中国は銀の国有化を実施しているので、それは蒋介石政権の所有に属する
ことなどをを理由として、之を拒絶した。・・・
1940年の7月には、英租界内の現銀1400万元を支出して、難民を救済
するため、国際管理の下でカナダの小麦を購入するとともに、残りは暫時
日英の共同管理とすることで、一時的な妥協が成立した。華北における
インフレを加速化した要因として忘却することができないのは、聯銀と
朝銀および正金との間で締結された「預け合い」契約(正式には中国聯合
準備銀行と朝鮮銀行および横浜正金銀行との預合契約)によって、軍費
の支弁等日本側の必要に応じて、聯銀券が自由に創出されるメカニズムが、
ビルト・インされるに至ったことである。当初この契約は、1939年の6月
に朝銀と聯銀との間において、非公式に締結され、朝銀の華北における支店
が、聯銀券資金を必要とする場合には、朝銀の北京支店が聯銀の名義で保有
する日本円預金勘定に貸記すると同時に、聯銀はその金額に相当する金額
を、朝銀名義の聯銀券建預金勘定に貸記することになったのである.
この預け合い契約によって朝銀は、満州からの撤退に伴って喪失した巨額の
預金を、カバーすることができただけではなく、1944年には、朝銀の
総預金に占める華北支店の預金が、8割近くに達した。その結果として
朝銀は、聯銀から事実上無担保で、営業上必要とされる資金を無制限に入手
することができるようになったのである。・・
しかしながら1943年10月から12月までの預け合いのうち、3億2200万円
は日本政府の国庫金支払い資金以外であり、坂谷顧問は、朝銀の田中総裁
に、「貴行の本預け合い使用ぶりは右の用途(国庫金支出、経済開発資金、
日支間国幣資金)に関係なく全ての資金を一応は預け合いにより調達せら
れ」と抗議した。(預け合い勘定の乱用には一応の歯止めがかかるように
なったが)預けあい契約に基づいて、50万人にものぼる軍隊の軍事費や、
経済開発資金、および対日国際収支尻を、無制限かつ一方的に、
ファイナンスするための自動的なメカニズムが導入されたことは、華北に
おける物価騰貴の一因をなすに至ったのである。
ちなみに1934年の4月から臨時軍事費の支払いについては、現地の
インフレに伴う臨時軍事費特別会計予算等の膨張により、軍事費の現地調達
が行われることになり、それまでの日本における財政収入の国庫送金による
代わりに、政府貸しあげ制度(政府が民間銀行から資金を借りる)が導入され
た。蒙疆と華北の軍事費については、朝銀、華中と華南の軍事費は、正金
から借り入れることとなり、朝銀は貸し上げに必要な聯銀資金を、預け合い
によって調達したが、その返済は、自国通貨でしかも戦後に行われることと
なっていたのである。その結果として聯銀の預け金は、聯銀券の発行準備の
10割を占め、それを除くならば聯銀の発行準備は、皆無と言えるような
状態を呈するに至ったのである。
🦊「円為替本位制度」の定義や、果たして「形成されたのか」、それとも
雲散霧消して終わったのか、キツネには理解不能である。だから本書の
「むすび」から、
以下の文章を引いて、終わりにしたい。
「むすび」
「もともと我が国の北進政策は、ロシア、後のソ連に対する潜在的な恐怖感
に裏打ちされたものであり、それに輸出市場の確保や利権獲得などの経済的
な要請が複合されて、軍事と経済が糾える縄のような関係を保ちながら、
対外的な侵略が押し進められることになったのである。・・
そのような我が国の対外侵略政策の展開には、当然のことながら、金融、
通貨政策面における対応が必要とされたのであり、太平洋戦争への道程は、
同時に円の対外侵略の歴史に他ならなかった。それは、輸出市場の確保
から、利権の獲得へとh力点を変え、ついには戦費調達の手段と化する
ことになったが、円の対外侵略は、過剰資本の輸出を目的とするものでは
なくて、むしろ資源とともに資本の現地調達を企図するものであったので
ある。一例として傀儡政権下の地域的な発券銀行に対する我が国の借款の
多くが、単なる見せ金に過ぎなかったことは、我が国の資金不足を物語る
格好の悲喜劇ともいえるが、逆に現地に天文学学的なインフレを巻き起こし
た預け合い契約は、現地資本収奪の恐るべき見本を示すものであった。
そのような我が国の植民地・占領地金融、通貨政策を、ほぼ一貫して貫流
してきた指導原理は、我が国の通貨制度を現地に移植しようとする自国本位
の「同化主義」に他ならなかった。為替リスクを現地に転嫁するとともに、
為替の換算に伴う労力を節約しようとするものであり・・為替相場の変動に
対する理解と適応を欠いた我が国の国際性の欠如を示す好例であり、為替
相場に対する無理解を、為替換算率という造語によって隠蔽しようと試みた
小児病的な愚昧さに至っては、噴飯の他はないのである。・・
植民地ごとに多様な通貨政策を採用したイギリスの「適応主義」と格好の
対照をなすものであった。)・・
確かに同化主義の一つの典型としては、第二次世界大戦前におけるフランス
の植民地通貨政策をあげることが可能であり、それは第二次世界大戦後も、
「フラン圏」の形成によって、基本的に継承されることになったのである。
そこにおいては(仏領インドシナを例外として)本国とフランスの海外領域
の通貨が相互に等価交換性を保証され、文字通りの最適通貨圏を形成して
いた。
しかしながらそこでは、海外領域の準備が、パリに集中されていただけでは
なくて、本国と植民地との間における財、サービス・資本の移動も、自由で
あり、さらには物価水準の平準化を達成するために、財政、金融、経済政策
の調整が実施されていたのである。・・
初期の「鮮満一体化構想」が日満華円ブロック政策に拡大され、それが
やがて大東亜金融圏構想へと肥大化するにつれ、円を圏内の基軸通貨とする
構想が登場した。とりわけ米英蘭の対日資産凍結を契機として、ドルまたは
ポンドとの結びつきを失った円は、金為替本位制度の原理に立脚して、
衛星国の準備資産として機能するだけでなく、圏内通貨の価値基準となると
ともに、決済手段としても使用されることになったのである。・・
大東亜金融圏の構成図は、相互に経済的な補完制を欠如するとともに、
我が国の金準備と物資供給力の不足に基づく、円の振替性事実上の喪失など
に伴って、東京中心の総合精算制度も、所詮は画餅に帰するの他はなかった
のである。
大東亜金融圏の総合生産制度は制度的に極めて不完全であり、盟主国を
もって任ずる日本もそれを維持し、発展させるだけの経済力を具備して
いなかったのである。いなむしろ我が国は、大東亜金融圏の共存と共栄を
謳いながらも、その実は飢餓的な戦争を遂行する間に、現地のインフレと
荒廃を代償として、資源と資本の略奪を、豺狼の如くに、飽くことなく追求
し続けたのである。
一例として、次のようなあるビルマの知識人の証言は、大東亜金融圏の
実相が、いかに腐敗と汚辱に満ちたものであったかを、赤裸々に物語るもの
と言えよう。
「日本の船は、武器と軍需品と酒と慰安婦の他には何一つとして、この国に
持ち込むことがなかった。軍の用を達したのは、寄生虫のようなブローカー
と日本の軍部と商社に寄生していたもの達であった。。物資の供給は急激に
減少し、そのために夢のような値段が支払われた。際限のない軍票の散布に
よって、彼ら(ニュー・オーダー・ブローカーと呼ばれていた)は、一包みの
タバコに数百ルピーを支払い、その食事に数千ルピーを使った。・・・それ
に愛人を囲っていた・・・彼らの奉仕する山師と戦時利得者は、巨額の資金
を物と金に投資し、買い占めを行うとともに、土地の上にあぐらをかいて
太っていった。それに対して多くのビルマ人は、うなぎ上りに値上がりする
劣悪な食料事情下で、栄養失調に陥っていった。」
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May I help you? 先進国日本の勘違い
儒学、王道、武士道、万世一系の神国思想・・
加えて、資本家が最上位階層に躍り出た。
そこで国民はどうなったか?
🦊 ところで、明治期日本に国民皆兵制度を導入した山縣有朋が果して
民の平等の権利のために、それを行ったか、疑問だ。
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「山縣有朋」 半藤一利著 ダイアモンド社 刊
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p75 「御親兵はいずれの藩臣にあらず」より
(明治2年3月28日、山縣有朋は薩摩の西郷従道と共に海外視察を命じ
られる)。山縣有朋が特に注意して観察したのは、各国軍隊の組織で
あった。「百姓からも町人からも、強い兵士を採る。同じ武器を持たせ、
同じ号令をかけて訓練すれば、きっと強い兵が出来ますよ。なあに、古代は
日本国民は誰でも御親兵として天子様の兵隊だったのだ。
徴兵制度は西洋の真似でもなんでもない。武士の栄える前の日本に
還れば良いのですよ」
今外国へ来て、強大にして斬新な西洋文明の導入が、新日本国存立の
ための必要要条件と、目を覚まさせられたのである。(フランス革命の
ことを聞かされて、彼は農民労働者の力を脅威に感じた。益々天皇中心
主義者となって、山形は帰国した)
兵部少将に任じられた山形は、2つの条件を提示した。
1️⃣ 国策として、あくまで兵制統一を図る。
2️⃣ 西郷隆盛を東京に呼び寄せて、(武士に人気のある)西郷を正面に
立て、その威貌の下で「影」となって兵制統一→国軍→廃藩置県の
大計を図ろうとした。・・・
西郷は状況を承認した上で、率直に答えて「自分は長州の木戸と土佐の重臣
とも相談の上で、薩長土3藩をもって御親兵を組織し、朝廷に献上するつもり
でごわす」
山形 「よくぞ言われた。それこそが国軍の基礎となりましょう。ただし、
もはや御親兵はいずれの藩臣にあらず(一朝ことある時は薩摩藩の兵は
薩摩藩に弓を引く覚悟も必要となる)それもご承知でございましょうか」
西郷は言下に言い切った。「よかでごわす」
御親兵=近衛兵は、日本最初の天皇の統帥下にある軍隊である。
「されば封建を打破し、郡県の治を敷かなければいけないと考えます。
このまま諸藩を存して置いては、中央政権の政治の実は上がらないのでは
ないでしょうか。念のために申しますが、この問題から氏族(旧武士階級)
の不平が噴き出すのは必然のことで、血を見ることになるやも知れません」
しかし、西郷の返事はあっさりしたものであった。「我輩の方はよかでごわ
す」
7月14日、疾風のごとく廃藩令が下った。この日、山形は兵部大輔に
昇格。今で言う防衛省大臣兼統合幕僚長である。自分の軍事的生命を維持
するためには、己の権力を脅かす近衛兵団の弱体化、むしろ解体が絶対条件
である事を、そのためには四民平等の兵制しかないと山形は見てとり、
命がけで奔走した。その努力は実を結び、明治5年11月18日、若き明治天皇
は全国徴兵の詔を発布。太政官告諭には古来日本において国民がいかに国威
を上げたか褒め上げ、「後の双刀を帯び、抗顔座食し、甚しきに至っては
人を殺し、官その罪を問わざるものの如きにあらず」と、武士階級に
対して真っ向からの一撃を加え、そして四民平等を高唱し、「それ上下を
平均し、人権を斉一にする道にして、すなわち兵農を合一にする基なり」
と、維新の理念を表明する。明治6年1月、国民皆兵の徴兵令が下された。
平均3万4680名、全4万6350名の兵数が動員できる兵制が整った。
🦊 だから、山形の全ての改革は、政治権力側の軍事力を高めるためで
あって、「四民平等」のためじゃない。「兵農合一」とは、農民を生きた
兵器にするヤバイ制度である。また、人権を斉一に、と言ったって、
渋沢栄一等の活躍によって、金持ち商人が新たな「上様」に成り上がり、
軍をも動かすようになる。で、相変わらず農民や貧乏人は「シモジモ」の
まま、現代に至る。最近でも、「余った金はいずれシモジモの方へも分けて
つかわす」などとご立派な政策を真面目に語る政治家がおる。(ま、ジジイに
決まっとる)
🦊 もう一つ、これも当ブログの何処かに載せた話だが、農民の賦役は、
年貢米と共に殿様に納める「人的武器」である。(ブログ[おらが家が村で
一番]より
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「三流の維新 一流の江戸」 原田伊織著 2016年ダイアモンド社 刊
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p146 元和偃武(エンブ=武器を収める)
戦国期の合戦に参加している者は、1割程度の武士以外は、侍も下人も
ほとんどが百姓の出であり、実際の戦闘に参加するのは武士と侍までで、
下人の仕事は馬の口をとって主人の戦闘を助け、また物資の運搬にあたっ
た。さらに、戦国期の合戦には意外に傭兵が多いのだ。気候が寒冷化した
こともあって、世は凶作、飢饉の連続であった。合戦で刈田狼藉にあって、
耕作ができなくなったというケースも多い。あとは、戦場に行くしか食う
道がなくなったという話もある。「悪党」と呼ばれるゴロツキや山賊、海賊
の類も戦場に集まった。侍、下人にとっても、百姓の次男坊、三男坊にとっ
ても、戦場は稼ぎ場であった。合戦とは突き詰めれば「略奪」「放火」
「強姦」の場であった。それを実行していたのが侍以下の百姓たちで
あった。(中略)
武田信玄が信州へ攻め入ってきた時のこと、大門峠を越えたあたりという
から、今の茅野市立科町あたりであろうか。ここで全軍に7日間の休暇が
通達された。
「シモジモ勇むこと限りなし」というから、雑兵たちは喜びに歓声を上げた
ことであろう。早速、一帯の村々を襲って「小屋落とし」「乱獲」「刈田」
を繰り広げたのである。近所の村々を荒らし尽くしまくってもう荒らす
村も無くなったので、翌日からは遠出しての乱獲となり、朝早く陣を出て、
夕方帰ってくる有様であったという。竹田軍が休暇をとった地域こそ良い
迷惑であった。・・・
竹田領内の侍、下人、百姓といった雑兵たちは、戦いを重ねるごとに
「身なり羽振り」が良くなっていったという。武士の戦闘を妨げない
かぎり、乱取りは勝手というのが武田軍の基本方針であった。百姓たちは
「御恩」「奉公」という思想は根付いていない。そういう百姓たちを下人、
人夫、あるいは侍、足軽として動員するには、時に乱獲休暇を与え、落城
させた後の火事場泥棒のようなご褒美乱取りを許しておかざるをえなかった
のである。
*************************************************************
🦊 戦国武将の武力と策略の優劣を論じて、それを日本史の王道であるかの
ように言うハテナ?学者も多いが、原田氏は日本の抜き難い階級社会の底辺
で暮らす逃げ場の無いシモジモの暮らしに光をあてている。そして徳川政権
の「戦いを一切許さない」という強い意志とそのための施策を高く評価して
おり、一方それを覆して、戦国の世に還ったかのような下層民の「使い捨て
兵器化」と海外侵略の野望を剥き出しに、「我らが世界一」と自己洗脳し、
金に塗れた権力闘争に明け暮れた明治政府の三流ぶりを告発している。
明治から伝統を引き継いだ金に塗れた政治と「階級制社会」の2024年の今、
「明治に帰れ」の声さえ聞こえて来る。
あの昭和の「国民皆兵」で戦場に駆り出され、最初から生きて帰れる望みの
ない者たちが、中国の民家に歓声を上げてなだれ込む。その悲惨な姿に
オゾケを振るう。歴史の網の底に渦高く溜まったゴミのようだ。
2024年 1月3日
🦊 追記
最近の新聞報道によると、ウクライナの若者が、兵役忌避のために大学に
殺到しているとか。同国では大学生は兵役が猶予されるらしい。
その一人が言う「やられたらとことん復讐するという奴もいるし、死ぬのは
絶対嫌だという奴もいる。人それぞれさ」と。ごもっとも。それが正しい。
キツネも心のうちの広い方の部屋を開けてそこに迎え入れたい。だけど、
悲しいかな、「愛国心」とか「国を守る義務」とかにめっぽう弱い自分も居
て、嫌な顔をする。どうしたらよかろうか。
この場合、神とは国のことであり、さらに「わが民族」のことだ。
だけど、日本にも所謂ハーフの人が増えてきて、特にマスコミ関係では上手
い日本語を武器に大いに活躍している。ウクライナだって、親のどちらかが
ロシア人という人も多いそうだ。
中国の李克強さん(最近死去)なら、「わが中華民族が」とは言わないだろう
が、習近平さんは「わが中華大民族」と言いたくてうずうずしているよう
だ。さらに「わが家は大家族。広い庭と畑とが必要」おまけに鉄砲と飼い犬
が欠かせない備品だ。なぜって、まず、国内の非戦分子を罰し、隔離するの
が第一歩。なぜって、「我は神の代理」ということを国民に解らせる
には、「強権、あくまで強権」が唯一の方法だから。で、ウクライナ国民の
願いである「戦争を終わらせる神」はいないことがわかった。「金の力で
戦争を終わらせる(経済制裁)」もうまくいかなかった。「グローバル経済」
という神官が仕切って、各国はそこそこ儲けを増やしただけだった。
戦争は何十年も続くと予想されている。隣の韓国、北朝鮮のように、分断
国家は増えて行き、最後は世界中がガレキと化し、それでも神の代理は繁殖
し続け、人間を圧倒する。
ホラじゃないよ。人知は破滅し、神の声だけが響く、人間AI化の世界だ。
AIでなければ猿に戻った人類か、どちらにしても「楽しい」結末だなー。
「国民の意志を統一する」という佐伯氏の夢は何処の地点を目指しているの
だろうか?ひょっとして「明治」のあたりでは?・・その辺はまだ明言されて
いないので、誤解かもしれないが。
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May I Help You? 先進国日本の勘違い
1️⃣軍人石原莞爾 ・・当ブログ「おらが家が村で一番」参照
「関東軍満蒙領有計画」で、彼はこのように言う。
平定・・軍閥、官僚の掃討と官私財産没収、関東軍による
現地支配層の完全覆滅。
統治・・軍政下で日、支、鮮3民族による自由競争。ただし
日本人は大企業と知的分野。朝鮮人は水田開拓、支那人は
工業労働。つまり「士農工商」の押し付け。
2️⃣ 銀行家、商人渋澤栄一・・「おらが家が村で一番」参照。
「商業こそが政治をリードする。民を救うものは財政である。
そして、個々の商人(及び政治家)が仏の導きに(あるいは
儒教の教えに)従って己を律したならば、民の暮らしは平安
なるべし。・・しかし、現実にはそうはならないのは・・
私の残念に思うところであります」。
3️⃣中国歴史専門家、ジャーナリスト内藤湖南。・・彼は
京都大学を中心とする中国史家グループを代表する碩学であり、
第二次大戦前の中国の改革と、日本の中国政策について
発言し続けた。
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内藤湖南ーポリテイクスとシノロジー
J・Aフォーゲル著井上裕正訳 1989年 平凡社刊
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🦊:この本は、アメリカ人歴史学者フォーゲルの、京都大学
人文科学研究所での内藤湖南研究の成果であり、湖南に対する
戦後の評価ーー「日本帝国主義の大陸侵略を美化する役割を
果たした」とする、あまりにも単純な見方を排し、彼の学説を
原点に立ち帰って検証しようとするものである。
本文p13 1880年代末から90年代にかけて、日本の中国政策
(戊辰変法、台湾問題)と言う政治問題が湖南の関心を中国に
惹きつけた。そこでの湖南の主たる関心事は、中国の改革が
日本の軍事介入で行われるものであれ、あるいは中国人自らの
手でなされるものであれ、いずれにせよ、日本の中国政策、
つまり中国の改革において日本が果たすべき役割に向けられて
いた。この日本の役割については、2つの次元に分けて考える
ことができる。第一に、日本政府の中国に対する外交政策と
軍事活動である。第二に、日本政府とは別の次元で、さまざまな
立場から中国と関係を持った人々の活動である。日中文化同一論
の立場にある湖南にとって、日本の欧米政策は、欧米諸国に比べ
て、より深い中国理解に基づいており、それゆえにその重要性も
大きいものであった。また、湖南の強いナショナリズムーー
それは明治、大正、昭和の日本において広く行き渡っていた。ーー
は行論中で「私」とあるべきところを、日本人である「我々」と
表現させた。同時代中国に関する湖南のさまざまな主張は、
「我々」日本人が政府の内であれ、あるいは外であれ、中国に
対して何をなすべきかを模索したと見ることができるのである。
湖南の主張の背後には、改革のモデルとしての明治維新に
対する深い自信があった。湖南は、一般に言うところの明治の
第一世代、ケネス・パイルのいわゆる「明治日本の新世代」
に属した。1850年代末から60年代に生まれた、この世代の人々
は、明治維新に個人的には参加しなかったが、多くの場合、倒幕
勤王系の人々である。彼らは明治維新が成し遂げた変革を改革の
模範と見做した。中国の改革とそこでの日本の役割を模索した
湖南にとっても、明治維新は改革の模範として絶えず脳裏に大きく
存在し続けた。明治維新が自分にとってなんであったかを湖南は
明確な形で述べなかったが、それを無私無欲な改革の理想的モデル
として考えていたことは明らかである。(中略)
p252 「新支那論」
1923年の夏に有馬温泉で病後の保養に努めていた湖南を
「新支那論」の執筆に駆りたてた直接の契機は、同年に漢口で
起った排日運動である。・・以下、本書の内容を追って見ていく
ことにしたい。
湖南は、近年中国で起こっている排日問題にいついて、・・
「日本と支那の関係は、何時再び困難に陥るかもしれぬと
考えられ、あるいはどうしても一度は破裂すべき余儀なき
経路にむかっているように考えた方が良いではないかと思ふ」
と述べる。ところで、このような主張は、これまでの湖南には
想像もつかない内容のものである。かつて湖南は、日清戦争直後
の中国は効果的な改革によって自強できることを日本から学んだと
考えていた。しかし、今や彼は、中国人はこの悲劇的な敗北から
ほとんど何物をも学ばなかったと主張していく。李鴻章は中国の
弱点を最も正確に認識していた人であるが、「如何せん頑迷な
支那人の盲目的なやり方を抑える力がなくて」日清戦争の勃発を
食い止められず、中国人はその敗北を「李鴻章の敗北」とみなし
た。・・その後の袁世凱は李ほどにも西洋文化を理解できなかった
し、また改革精神においても、李には及ばなかった。そして清末の
立憲政治論は、立憲政治を「西洋の盛んな所以、日本の盛んに
なった所以」と盲信した「立憲政治万能論」であった。それに
比べれば、1020年代中頃の改革論者たちは、西洋諸国は「その
社会組織の根底が支那のそれとは違っている」と考え、「西洋文化
に倣うには、支那の社会組織を根底から改革せねばならぬ」と深く
理解するようになった。しかし、このような「若い人は、支那の
歴史を知らず、自分の国の弊害がどういふ点から来ているという
ことも知ら」ないと、湖南は厳しく批判する。彼らは「欧米で
学生生活を送ってきた人々であっても、支那に帰って支那の官場
生活に感染されないものはない」。排日運動に奔走する彼らは、
「李鴻章や袁世凱時代までの政治家のごとく、外国の如何なる点に
優秀な能力があり、如何なる点に恐るべき潜在力が籠っているか
といふ事を理解せない、まるで酔狂人のごとく狂い回って、見物人が
妨害さえしなければ、それを成功だと心得ている」。(中略)
1900年義和団事変に際して列強諸国は、協調して北京と天津を
「共同管理」した。「然るに今日では有効な外国の共同といふ
ことが全く望みなく、支那にも騒乱を制限して支那人の安全を企望
するといふ様な政治家もいない。また、「支那では政治家が職業と
して無意味な主権論を担ぎ回るとき、日本人に対する侮蔑心から
して、延いては更に他の外国人に対する態度もだんだん横暴になって
行きつつあるとき、そして日本は隠忍の上にも隠忍して、結局は
破裂せねばならなぬような道程をとっているとき、それで利害関係を
最も痛切に感ずる日本が、支那との間に何時までも無事に進んで
行こうと云ふことは、人間の知恵では考えられない事である」。この
様に湖南は述べ、中国の現状に対する日本の忍耐がすでに限界に
達しつつある事を暗に示唆したのである。・・
長年にわたって中国の改革を観察し続けてきた湖南は、ある
時点から、中国が自国のことすら処理できない国になってしまったと考える
様になった。そして中国がそうなった理由を彼は論理的には、民族には
それぞれ年齢がある、という仮説で説明した。すなわち中国はとうの昔に、
政治、軍事的な年齢である青年期を経過し、現在は文化生活を送る老成した
年齢にあるというのである。
また共産主義者も含めて現代中国の青年たちは、このような中国の
文化や歴史に見られる特徴を理解できず、西洋化や急進的改革の
スローガンを叫ぶに過ぎない、と湖南は批判する。そしてヨーロッパ
諸国にとって中国は、単なる商売相手に過ぎず、ただ日本だけが中国
に有効な援助を与えうる文化的にして戦略的な位置にある。しかし
日本人はそのことを理解していないと彼は述べ、批判の矛先を
今度は日本人に向ける。それまで湖南は中国の改革をいつも念頭に
おいて、中国にとって、また日中関係にとっても最善な道を模索
し続けてきた。ところが1910年代末から20年代における中国の
状況に直面した湖南はついに、中国人には自国を運営する能力すら
ないと判断せざるをえなかった。こうして彼は、中国の政治や経済の
諸機関を効率よく運営するには、中国人自身でやるよりも、むしろ
日本人と協力した方が良いと確信するに至ったのである。(以下略)
p265 満州と「満州国」
湖南は、中国を改革するときに、外国の武力行使が許されるかという
問題について、必ずしも一定した見解を持ってきたわけではなく、
そのことが彼の政策論議 の顕著な特徴でもあった。ところで、
武力行使の是非という難題に彼が最初に逢着したのは、中国の
改革問題ではなく、むしろ満州問題においてであった。1913年の
7月に発表した満州問題に関する論説の中で、次のように述べている。
「支那に対する外交政策として支那人の感情を極端に顧慮する必要は
ない。・・末広博士(末広重雄京大教授)の放棄論は、帝国主義に
反対して大陸に領土を広めないという方針であるから、支那人に良い
感を与うべきはずであると思われるが、事実はさうでない。支那人は
近頃不治の病に罹った病人が生命に関することを言わるるのを嫌う
がごとく、自己の力の及ばぬ地方に対してもその統治権に対する
自尊心を傷つけらるるのを好まない。・・
当時、湖南は日本人の満州移住を、歴史的理由からもまた経済的理由
からも是認していた。満州の歴史を取り上げた論説で、彼は数世紀の
間に満州や朝鮮の地に興亡した国々と日本との関係を跡づけている。
その結果、一般に日本はそれらの国々と中国に引けを取らないほど
長い関係の歴史を有し、時には渤海国との場合の様に、中国以上に
親密親密な通商、外交関係にあったこともあると彼は指摘する。
(1934年に彼が胃癌で亡くなる前の3年間に執筆した論説と書簡
には)彼がアジアにおいて必要と考えた目的、つまり改革を達成
するためには武力行使が許されるかという、終生彼を悩ませ続けた
テーマに対する心の葛藤が投影されている。・・
その中で彼は、清朝最後の皇帝であった溥儀に対する関東軍参謀
石原莞爾の「取り扱いにつき心配」な旨を記している。この書簡に
登場する矢野仁一は、湖南とは京大における15年に及ぶ同僚教授
であったが、1932年に京大を退官し、関東軍外務局臨時嘱託、
満州国外務局嘱託となり、「満州国」を正当化する理念、すなわち
儒教的な「王道」の理念作りに尽力したのである。他方、石原莞爾
も「満州国」の建国理念として「王道主義」を選択した。かつて
立花撲(たちばなしらき)や孫文もアジア諸民族の「大道」を主張
した時期があるが、そのような思想が、石原に少なからぬ影響を
及ぼしたことは間違いない。・・
ちょうど関東軍が溥儀を「満州国」の執政に就任させた頃、湖南は
「満州国」について初めて論説を発表した。その中で彼は、「今度
の新国家は、そういう軍国的の希望を持って生まれたのではなくして、
この肥沃な地方に世界民族の共同の楽園を作ろうという」「現在の
東亜情勢の上からも非常に重要な事件である」と述べている。
清朝と日本との関係において、清の皇帝だった溥儀を元首に戴く
ことは歴史の流れに逆行するが、「満州国」は清朝と「建国の
精神は全く違っており、君臨すれども統治しない日本の天皇と同様
に、彼は国民統合の象徴として十分な役割を果たすだろう。・・
次に湖南は、満州の開発と日本との関係について、「今度の新国家
は、日本の嘱託事業というのではなく、新国家が自己存立の目的を
持って、その資源としては日本の資本並びに日本人の能力によって
満州土着人の訓練をし、その訓練を更に拡大して新国家の基礎にしようと
云ふ」ものでなくてはならない、と注文をつけている。
また日本の当局者に対して、特に経済活動の面で、日本人の間に
醜態を暴露することがないよう、十分に考慮すべきことを提言し、
「日本人は、他の自治組織を尊重して活動しなければならない、
それに関して、「日本人の大陸進出の先駆となって、これまで
働いた人々はやはり豪傑肌の人物が多く、創業の際には非常に
役立つけれども、施政時代に入って民政の安定など平和の事務
には不向きな人々も少なくないと助言する。
こうして最後に湖南は、「満州国の新国家もかくの如く速やかに
建設されたのは、全く日本の軍人の勲労による」と述べて関東軍
の功績を一応評価しながらも、「軍人がいつまでも新国家の組織に
重要なる関係を持っていると云ふことはよほど考えものであって、
満州の将来に対しても国防組織などは満州新国家の軍部として別に
新たに考え、日本の軍部というものの関係は、なるべく早く手を
切る必要があると思ふ」とのべ、軍部に釘を刺している。更に彼は
この点に念を押すように、「軍人の単純なる精神は、ややもすれば
自己に陶酔して何事も武力で行いうるというような妄語を起こす
こともないではないから、ことのついでに苦言を呈しておく所以
である」とこの論説を結んでいる。
(1932年5月15日、湖南の旧友である犬飼毅首相は、海軍青年
将校を中心とするグループによて暗殺された。=5・15事件)
この2日後、湖南は「犬飼首相のことども」を執筆して、故人の
功績を讃え、彼を失ったことは日本にとって大きな損失であると
その死を悼んだ。
事件後、関東軍の独断専行が日増しに強まっていった。・・
(現に学者たちがこぞって「満州国」を賛美し)1932年に儒教
雑誌『斯文』の巻頭論文「王道主義」の著者は、当時日本で最も
著名な「日本主義者」であり、また儒教研究者でもあった井上哲次郎で
あり、彼はこの論文で盲目的な対外強行主義を唱道しながら、「満州国」
の建設を儒教的「王道」の実現として賛美していた。このような言論
こそは、まさしく湖南が危惧するものだったのである。ついで1932年の
斯文特集号では、発行元である斯文界の重鎮塩谷温の基調論文に始まり、
ついで学会、政界、華族、軍部といった各界指導者の論説が続き、またまた
王道」や「満州国」を激賛する短文や詩も多く掲載されていた。
そして、それらの論説などはほとんど学者や大学教授の手に
よって書かれていたのである。湖南が満州国について書いた
最後の論説「満州国今後の方針について」の中で、満州のことについて
精通しているはずの学者たちが、日増しに無責任な言動をおこなっている
ことに対して明らかに憤慨している。
「多くの国家といふものは、いずれも歴史的発展の結果によって
成り立ったものであるが、しかるに新しく成立した満州国だけは、
その点異様な物である」(支那、朝鮮、日本からの移民という
材料を、日本人の方針により組み立てられた国家である)
「こういう来歴で出来上がった国家が果たしていかなるものに成長して
ゆくか、見通しの難しい問題だと思ふ」と彼は述べ、そしていずれにせよ、
「満州国」の将来は、日本人と中国人がどの程度に協力できるかに間違い
なくかかっていると湖南は述べている。
学者として、またパブリシストとして、湖南が最も許せなかった
のは、「満州国」建設の理念として古代中国に生まれた「王道」
ということが頻りに唱えられて、建国の理想とされているという
ことであった。その王道というものが歴史上実現された時代と
いうものは殆ど無かったのであるから、つまり古来からの理想
として持ち伝えられた教訓にすぎない。且つこの理想という
ものは、誠に結構で、何人も異議を挟む余地がないが、それを
行う人の如何によっては、時には却って理想と反対の結果が
生じることもあることも、歴史上に見受ける所である。(かかる
結構な理想を排斥する必要はないとはいえ)ただ、王道に
対していかなる具体的な内容を盛るべきかということを最も
深切に十分に考ふべき必要があると思ふ。「まず第一に考え
ねばならぬことは、満州国の実際の事情を正しく且つ確かに
知るということであり、更にあらゆる国家の歴史をもよく
了解しておって、このような人為的国家にあっては如何なる
組織にすることが一番良いかということを十分に自分自身で
考えうる人が、国家の中心に居るのでなければできぬことである」
と提言する。その際彼は日本の明治維新には「勿論国家の
手本として採るべきところが多々ある」としながらも、「もっぱら
日本などで完成した文具的政治機構などを模倣することをその
国家の重要な仕事とするは、非常に間違っている」と警告する。
すなわち、「満州国」の機構はあくまでも「満州国の実際の
事情に合ったものでなければならない、と湖南は主張するのである。
湖南は最後まで、政府や軍部の方針を無批判に賛美する学者たちの
仲間には加わらなかった。・・彼は現実を知らない、空想論、
理想論は大嫌いだった。彼の考えでは、「王道主義」によって
「満州国」の正当性を学問的に裏づけようとしている学者たちは、
中国史の知識を現代問題の正しい理解に役立てているとは決して
言えなかった。学者が批判という責務を放棄して国家の道具と
化してしまうならば、中国の前途に如何なる希望があるというのか。
湖南の苦悩は重く、また深かった。
p176 湖南が最も強く主張したかったことは、中国は、共和政治に向かう
歴史的発展を踏まえた改革を必要としているということである。しかし現実
の中国を知れば知るほど、彼は中国人には改革を実行する能力がないと判断
せざるをえなかった。こうして彼は、日本が援助しなければ、中国人は
軍閥、官僚、欧米列強の圧迫によって間違いなく苦しめられると考える
ようになった。
とは言っても同時に彼は、日本の軍国主義者や日本の利益しか考えない
中国政策が、中国人の苦しみを一層重くすることも懸念していた。そして
歴史は彼の恐れた方向へ流れていったのである。・・
(彼は、中国農村に、伝統的なリーダー=彼のいう「父老」を
中心とする「平等主義」郷団が存在したが、それが中国史の
中期に解体していったと主張する)。しかし、中国共産党は新しい
「郷団」を設置し、それを起点として省から国家に至る連邦制的な
組織を構築した。その意味において、彼らは湖南の夢を実現したと
言えるかも知れない。しかし、彼らが地域社会の犠牲の上に、
中央集権的な支配体制を復活させたことに対しては、地下に眠る
湖南も黙ってはいないだろう。もしかしたら、1920年代に中国共産党
を非難した湖南は、そのような共産主義に潜む中央集権的な体質を
察知していたのかも知れない。・・
彼は中国の改革に日本という「国家」が大きな役割を果たすべきで
あると主張したが、これはある意味彼のナショナリズムの表明
でもあった。(しかし、日本人の多くがそうであったように)日本の
中国侵略に対する中国人の抵抗が、彼らのナショナリズムの表明で
あったことを、湖南は理解できなかったのである。そこに彼の限界
があった。(以下略)
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🦊:これを読んだ限りでは、どうしても内藤湖南という学者の
「現代人」になりきれない部分、「国民国家」という全く未経験の政治体制
に理解が及んでいないこと、ジャーナリストとして出発したというにしては
現実社会を知らずに、一種の夢を見た、という印象が残る。
ところで、フォーゲルはこの本の中で「湖南の夢」という表現を
用いているが、確かに彼の夢、またはロマンであったかも知れない。
そういえば、ジャーナリスト出身で、同じように「清廉潔白な維新」の
夢を小説にした司馬遼太郎も、大学でモンゴル語を学んだ。彼の場合は、
大陸への夢では無かったが、夢みがちな若者のロマンを紡ぎ出して、
日本人には大いに受けた。この頃のテレビ番組で、湖南を見直すという
雰囲気のがあったが、「何も知らない中国人に、新しい共和主義的国家
の作り方を伝授したい」という湖南の希望を、かつての軍国主義日本の
大陸侵略の正当化に利用されないかと、キツネは心配になる。
アメリカにせよ日本にせよ、「俺にまかしとけ」というほど、自由平等、
民に開けた正直な政治がなされているわけでもなし。余計なお節介は
世界制覇の夢を捨てきれない独裁者か、または核の帽子を脱げない軍人
の夢を実現させるだけ。(今まさにその悪夢のような事態が起こり、
大地震のようにヨーロッパを揺さぶっているんでは?)
「脅しの地政学」はいい加減にして、懲りない日本人、勘違い日本人は
卒業しようぜ。
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🦊
渋沢栄一について・・
キツネとて万札は喉から手が出るほど欲しいが、新しい1万円札に、
好好爺然とした彼の顔を見るのはあまり嬉しくない。なぜ聖徳太子
に替えて、渋沢なんだろう?
彼は清廉潔白、慈善事業でも有名な経済界の「花咲か爺」であるらしいが、
「国の富を進めてゆく」ことこそ、これからの日本の進むべき道であると
言い、具体的に兵力増強を、とは言わないが、民についてこう言っている。
「万一日本が危ういようになった時は、外国にある者は皆、帰り来たりて
父母の危邦に入り、祖国のために防護の任務につかざるべからず。また、
すでに祖国にあるものは、あくまで踏みとどまって国に一命を捧げざる
べからず。決して外国に逃げ出すとかいうことを許さぬ」。
だが彼の創った第一国立銀行(のちの朝鮮銀行)は、見事に軍部の御用を
つとめ、大陸侵攻のお膳立てをした。そのことについて問われると、彼は
「私が銀行業を辞めてからもう10年余なります。その間のことは、
あまり覚えておりません。欠かさず新聞を読むといったこともしないので」
とおっしゃったとか、(キツネが聞いた噂では)。
今日の経済発展の源は、渋沢のような明治期の旧幕臣たちの功績で
あるという、国内共通認識があるらしい。そこまではいいが、それを
民民の暮らしのために活用したのか、富国強兵の実践訓練のために活用し、
民の命、アジア人の命を容赦なく奪ったのか、果たしてどうか。
万札の次の候補は「山縣有朋」じゃあるまいなー。
神の代理を担ぎ出す
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神の代理を担ぎ出す
2024年元旦の朝日新聞より
佐伯啓治氏の「異論のすすめ」より
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「しかも日本人はほとんどの者が、天皇とは何か、民主主義とは
何か、アメリカとともにとは何か、などまともに考えたことも無いにも
かかわらず、あたかも自明の真理ででもあるかのようにそれを担ぎ出すので
ある皆で空気を作り出し、その空気に従うのである。
担ぎ出すものは時代によって違い、情報によって変わる。しかし、
なにかを担ぎ出すことによって社会はまとまる」
🦊 ここまでは良い。しかし日本人は「ただ、神の代理を果たす何かを
必要とする。それが価値の基準となり、日本社会に秩序を与え、また、
日本の向かうべき方向を指し示すのである。この神に代わるものは、
日本の場合、海の向こうから来る高度な普遍文明であった。例えば古来
中国の高度な文明を取り入れた日本の支配層は、中国の権威を背景に
日本社会の秩序と方向を得てきたのである。そして現代は「価値基準の
追いつく先」が無い。そうであれば、今日こそ我々は我々の手で日本社会に
「秩序」を与えることが必要ではないか」と言う。
🦊現在の皇室も日本文化の内、といつも言ってるキツネはそれを読んで、
「社会をまとめる」「日本社会に秩序を与える」って何のこと? と
口をアングリ。何のことか教えてくれませんか?
京都学派
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京都学派 菅原潤 著 2018年 講談社現代文庫
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p147 戦争中の西田幾多郎(ニシダキタロウ)と田辺元(タナベハジメ)
西田は1938年に文部省教学局の依頼により、「日本文化の問題」と
銘打たれた講演を行い、田辺も1943年に、学徒出陣する文系の学徒に
激励する講演を行っている。
西田・・・「私は我が日本民族の理想の根底となったのは、歴史的世界の
自己形成の原理であったと思う。東洋の一孤島に位置し、何千年来殆ど
閉じられられた社会として、独自の発展をなし来たった日本民族には、
日本というものが即世界であった。日本精神は日本歴史の建設にあった。
併し今日の日本はもはや東洋の一孤島の日本ではない。閉じられた社会
ではない。世界に面して立つ日本である。日本形成の原理はすなわち世界
形成の理論とならなければならない。最も戒むべきは、日本を主体化する
こと、すなわち皇道の覇道化にすぎない。それは皇道を帝国主義化する
ことに他ならない。
これまでは日本は即世界であった。皇道は我々がそこからそこへという
世界形成の原理であった。日本は北条氏の日本でもなく、足利氏の日本でも
なかった。日本は一つの歴史的主体ではなかった。」
「我々は我々の歴史的発展の底に、矛盾的自己同一的世界そのものの自己
形成の原理を見出すことによって、世界に貢献しなければならない。
それが皇道の発揮というものであり、八紘一宇の真の意義でなければ
ならない」
田辺・・「決死ということは、実際に死ぬことが生の中に取り入れられる
ことである。いつかは死ぬと言う観念的な覚悟のばあいは、決死とは言わな
い。決死ということは、もっと積極的に実践して、死が可能としてでは
なく、必然的に起こることを見抜いて、我々がなおそれをあえてなすときに
言うのである。これは実際に生を死の中に投ずることであり、生きていなが
ら死の可能性を考えることではない。必ず死ぬことがわかっていて、なお
為すべきことを為す、じっせんすべきことを実践すると言うこと、我々の
生を向こうの死の中に投ずることである。それは覚悟という言葉で言い表せ
ない。よく似ているが、本質的に違っている。
p154、「死生」との関係
この種の「種の論理」が「死生」 にも貫かれている。
仮に「個」=人間、「種」=国家、「類」=神としてみよう。そうすると、
「個」=人間にとって、「種」=国家は、死を賭してそこに自らを投入すべき
ものとなる。言うなれば、「個」=人間は、「種」=国家のために死ぬべき
存在となるわけだ。この辺だけを強調すれば、田辺の種の論理は、太平洋
戦争における特攻を正当化する論理にもなるだろう。この演説をきいて、
人間魚雷「回天」に乗り込んだ上山春平などは、実際にそのように受け止め
ていた。(中略)
繰り返し述べているように、戦争協力には多くの文化人、知識人が手を
染めているのであって、その責めを京都学派のみに帰するのは性急である。
京都学派の言説が、日本人のトータルな理解に基づくものではなく、
むしろ西洋近代の衝撃から形成されたものだったというのも事実である。
(中略)
p196 鶴見俊輔のプラグマテイズムに基づく評論集の中でも
注目されるのは、「言葉のお守り的な使用法について」である。
鶴見俊輔・・「言葉のお守り的使用法」とは、ことばのニセ使用法の
一種であり、意味がよくわからずに言葉を使う習慣の一種類である。
ことばのお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって
正統と認められている価値体系を代表することばを、特に自分の社会的、
政治的立場を守るために、自分の上に被せたり、自分のする仕事の上に
被せたりすることを言う。このような言葉の使い方が盛んに行われている
ことは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が、言葉の
意味を具体的にとらえる習慣を持つならば、誰か扇動する者が現れて
大衆の利益に反する行動の上に、何かの正統的な価値を代表する言葉を
被せるとしても、その言葉そのものに惑わされることは少ないであろう。
言葉の絵お守り的使用法の盛んなことは、その社会における言葉の
読み取り能力が低いことと切り離すことができない」
この論文が執筆されているのが敗戦直後であったことを考え合わせると、
「意味がよくわからない言葉を使う習慣の一種類」と言うのが、戦中の政府
のプロパガンダ活動であることが容易に想像がつく。実際鶴見は、この後
に、実例として、「国体」「日本的」「皇道」といった、戦時中に頻繁に
使われた語とともに、「尊皇」のような幕末に流行した語も含めている。
他方で鶴見は、その戦後の例として、、民主」「自由」「デモクラシー」
をあげていることにも注意すべきである。鶴見が民主主義を否定している
と言うことではなく、よく「意味が分からずに」使われる点では、「皇道」
も「民主」も大差がないと言うことである。
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漱石の言や良し
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朝日新聞===2020年11月1日===「日曜に想う」より
曾我豪編集員
<明治40年、(1907)だから日露戦争の翌々年、時の西園寺公望
首相は、文人を招き「雨声会」を催した。・・・
招待された二十人の文人のうち、二葉亭四迷、坪内逍遙、夏目漱石
は断った。漱石は断りの葉書に一句添えた。
「ほととぎす=厠半ばに出かねたり」
多忙が本当の理由だったのか。漱石はその後も西園寺の招きに応じず、
それは20回に及んだのである。(中略)
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漱石とその時代 第二部
江藤潤 1970年 新潮新書刊
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🦊:本書は漱石の伝記だが、その中の、英国留学中の経験として日英同盟に
ついて語られる部分があるので、そこだけ拾って見た。当時の国民に与えた
「安堵感」について、である。
p181 日英同盟
日英同盟がロンドンで調印されたのは、明治35年(1902年)1月30日の
ことである。2月12日に交付されると、日本では一種異様な興奮状態が
起こり、朝野をあげて連日のように祝賀会が催された。14日には慶應義塾
の学生が、親愛の意を表するために英国公使館にたいまつ行列を行い、
祝いをこめて次のような新作唱歌をうたった。
「朝日輝く日の本と入日を知らぬ英国と西と東に分れ立ち同盟契約
成るの日を世界平和の旗挙げて寿ぐ今日の嬉しさや」
15日には国民同盟の祝賀会が開かれ、17日の華族会館での祝賀会には、
内閣総理大臣桂太郎ほか各閣僚、貴衆両院議員45名が集まり、中日英国公使
サー・クロード・マクスウェル・マクドナルドを主賓として盛大な宴が
開かれた。乾杯の音頭をとったのは公爵近衛篤麿であった。
ロンドンでは在留日本人会が林公使の労をねぎらうために記念品を送ること
申し合わせ、(夏目)金之介も5円寄付させられた。
「切り詰めたる留学費中、ままかくの如き臨時費の支出を命ぜられ甚だ
困却致し候」と彼は岳父の中根重一にあてて書いている。
・・(また日英同盟についての日本の興奮ぶりは、ヨーロッパの
新聞に冷笑を持って報じられた)
漱石もまた中根重一あての手紙に書いた。
「新聞電報欄にて承知致し候が、この同盟事件ののち本国では
非常に騒ぎ居候よし、かくの如きことに騒ぎ候は、あたかも貧人
が富家と縁組を取結びたる嬉しさのあまり、鐘太鼓を叩きて村中
駆け回るようなものにも候はん。もとより今日国際上のことは、道義に
つながるよりも利益を主に致し候らえば、(単純に個人の例を日英同盟
の例えにするのは妥当でないかもしれないが)これ位のことに満足致し
候さまにては甚だ心もとなく存じ候」
金之助の反応は、いつも祖国が強大で、より多くの尊敬を勝ち得ている
ことを願う留学生の心理特有のものであるが、だからといって日英同盟が
日本の国民心理にあたえた安堵感の大きさを割引して考えることは
できない。三国干渉以来、日本政府は必死に「対一国策」、つまり
同時に二国以上の西欧列強を敵に回さないようにする外交政策を
模索し続けてきたからである。「おりしも英国より我と同盟の議論を
起こし來りしは、願ふてもまたとなき事」と首相桂太郎が狂喜し、
「我はこれより単一なる露国に対する作戦目的を持って、全ての点に
つき計画を立つるを得たり」と自祝したのは当然であった。
日本の実力を、ある意味で幻想に惑わされずに直視することができた
のは政治家や軍人であって、金之助などの知識人ではなかった。
しかしまた、彼らに「気炎」を吐きたがらせるような憤懣が、維新以来、
あるいはペリー来航以来いつも国民心理のどこかに底流し、きっかけが
あれば奔出しようとしていたという事実も否定し難い。
それは傷つけられた誇りの問題であり、強力な外圧のもとで近代化に
踏み切った国民の、心理的混乱の反映である。その点で、その興奮ぶりを
痛憤した夏目金之助らとの間に、それほどの隔たりがあったわけではなかっ
た」・・・
*************************
🦊漱石は言う。「国の存続が危ういとかいう場合でない限り、このように
騒ぎ回るのではなく、国民一人ひとりの良識こそ、大切にすべきだと、
私は思う」
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捨てられた憲法を拾え👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓捨てられた憲法を拾えーー暴力に抵抗する憲法
「法と暴力の記憶」2007年 東京大学出版会刊
高橋哲哉他13人による共著より
中島隆博・「1960年代の竹内好」
より抜粋
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p29 中国共産党が政権を取ったその年、竹内好(タケウチ・ヨシミ)は「文学
革命のエネルギー(1949年)」という論文を書き上げていた。その中で中国
文学の革新性について、伝統と革新という面から眺めると、文学革命は、
伝統を否定することによって伝統を全面的に蘇らせた運動である」と
述べた。つまり、真の革命とは外から何か新しいものを借りてきて古い伝統
に対置してみせるのではなく、悪しき伝統であっても、いや、悪しき伝統で
あるからこそ、その伝統を徹底的に自らがそれに他ならぬものとして抱きと
り、その上でその伝統を全面的に否定することなのだ。そに上で初めて、
自らもまた、他なるもの、新たなものとして変容していく。
窮鼠猫を噛むとか、毒を持って毒を制す、ということがあるが、究極の追い
詰められた状態とはそのようなものだろう。そして究極の場所でなければ、
価値の転換は起こらない。
「全集7巻・p141」より
中国文学は、「自己が自己であることによって他物に変わる」ことができ
た。これが、伝統を伝統として体験化することで、抵抗としての主体を形成
し、その上で、伝統を切断して自らを自覚的に変容させる方法を有していた
からだ。ところが、それは日本文学(そして日本)にはなかった。この論文の
最後には日本文学は「文学革命を経験しなかった。つまり、断絶を経験
しなかった」と書き記されていた。
しかし、日本文学も伝統に対しても、ある仕方で体験化していなかった
だろうか。それにもかかわらず、日本文学を中国文学から隔てる徹底的な
契機があるとすれば、それは何であるのか。
竹内の議論をまとめると、それは他に頼らず自ら判断することの欠如、
そして何よりも「道徳」の欠如である。
竹内はしばしば「ナショナリスト」であると批判されてきた。「国の独立」
そして「愛国」を事あるごとに口にしてきたからである。それはいかなる
意味でのナショナリストであったのだろうか。
ナショナリスト」としての竹内の立場は明快である。「戦争責任の自覚の、
不足」、「良心の不足」そして「勇気の不足」が「ナショナリズムとの
コミュニケーション対決を避ける」ように仕向けているに過ぎない。
「ナショナリズム」が必要なのは、自分で自分の責任に後始末をつけるため
であって、最低限の道徳のためである。「文学革命」そして革命一般には、
このような「ナショナリズム」と「道徳」が不可欠である。
p216 世代の断絶を超える
竹内は、「若い世代」と戦争体験に固執する「戦中派」との断絶をどのよう
に繋ぐのかに腐心していた。1960年代(安保反対闘争の時代)に、開高健など
の若い世代とのやりとりを通じて、若い世代と自らの断絶を感じ取っていた
彼は、こう述べている。「その原因は、戦争体験の一般化に失敗した
私たちの世代の方にある」
遺産を拒否して戦う若い世代に対して、「戦争体験」を一般化してそこから
相続すべき遺産を整理して手渡すことができなかった悔恨を覚えていたの
だ。「もし彼らが主観的に拒否すれば戦争体験の世代と切れると考えるなら
ば、そのこと自体が戦争の傷から開放されていないこと、彼らもまた戦争
体験の特殊化の被害者であることを証明している。遺産を拒否するという
姿勢そのものが遺産の虜である。歴史を人為的に切断するということには
私は反対ではないが、切断するためには「方法」をもってしなければなら
ない。戦争の認識を離れてその方法が発見てできるとは思えない。・・・
とはいえ、断絶を埋めるのは容易ではなかった。竹内が成功例として挙げた
吉本隆明との間にさえ連帯を維持できなかったからである。それでも竹内は
「戦争の傷」にこだわり続けた。なぜなら、戦争はまだ終わっていない
からである。
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p111 捨てられた憲法を救えーー暴力に抵抗する憲法
t(サンフランシスコ条約が批准された1952年に書かれた)「若い友への手紙」
の第4章は、次のように書かれていた。
第4章は「憲法と道徳」と題されていた。
「なぜ、身についたか、時間の経過ということもありえます。が、それだけ
ではない。白日の下に、新憲法が無残に犯されていくのを見ているうちに、
いつとはなくこれでいいのか、という疑問が起こってまいりました。人ごと
のように眺めていていいのか、自分のものではなかったのか。いつとはなく
我が身に痛みを感ずるようになりました。
(中略)・・
私の場合には、為政者の憲法無視が、逆に憲法擁護の気持ちを起こさせた。
これを、先に述べた私流の歴史法則に照らして申しますと、与えられた憲法
を否定する力は自分にはなかったが、幸か不幸か、権力者が暴力的に破壊
するので、その破壊をテコにして、次第に自分のものとして受け入れられる
ようになった。これは一種の「弱者の知恵」であります。旧憲法を自ら否定
したのではないために、それを「結構な憲法だとは思ったが、何だか眩しく
て、他人事のような気が」していた竹内は、その新憲法が権力者によって
「無残に犯されていく」ことから反転し、それを抱きとり、我がものに
しようとしていく。
なぜなら、それが魯迅を典型とする「弱者の生き方」すなわち、「自分の
憎む者に自分が憎まれるようになること」であるからだ。捨てられたから
こそ拾い上げるという憲法擁護は、(弱者の知恵」である。
1960年5月には、竹内は「闇が深まるときは暁の近づく時であります。絶望
の底に希望が生まれます」と述べることができた。しかし、そのわずか
8年後には、「日本の戦後に一度は希望を持ったことはあるけれども、今は
ありませんよ。幻想だったというほかはありません」と吐き捨てるほか
なかった。
竹内が捨てた「希望」をどう拾い上げるのか。「戦争の傷」がさらに深く
膿んでいる今、これは不服従の遺産を相続する私達への問いである。
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🦊: 竹内氏は1910年生。かくいうキツネは1940年だから、戦後派の第一
期生にあたる。一方竹内は戦争にも行き、戦争の実態を知る「戦中派」だ。
しかし、例えば炭鉱事故で死にそうになった人が運良く助け出されて、
ひさしぶりに外の清浄な空気を吸ったとする。
「誰が俺を助けたか?」と喚いて「頼みもしねえのによ!」とは有り得ない
話じゃなかろうか。今の「戦前回帰派」の言い草を聞いてると、清浄も汚濁
も、中身の検証なしで、ただ、「押し付けられた」と、そればかり。概ね
70~80のお年寄り連中。まさに「狂気の戦後派」、「白痴的マントヒヒ」の
群れ。(ホントのマントヒヒさん、ごめんよ)
竹内が捨てた希望を、どうすくいあげるかは、若い人たちに託す他ない
ようだ。戦争が犯罪として罰せられる世界は来るのだろうか?星印の旗を
振るサルどもを追い払い、軍事パレードに胸ときめかせる国民に冷水を
浴びせるような、深刻な変動が地球を襲う前に。
2月某日
NATO ーー大国アメリカの罪と罰
ロシア新戦略 ドミトリー・トレーニン 著
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p181 より広範なNATO拡大問題
(ロシアにおいて)2010年に採択された最新バージョンの軍事ドクトリン
においてさえ、NATOはロシア連邦に対する脅威であると位置付けられて
いる。(正確には、軍事的脅威よりも上位の軍事的危険の第1位に、NATO
が挙げられている)冷戦が終結してから20年が経ち、メドヴェージェフ
大統領が「NATOの攻撃性」なるものが根拠のないことだと述べるように
なってもなお、NATOに対するこのような反発があるのはなぜなのだろうか。
NATOに対するロシアの態度というものは、片思いと幻滅の繰り返しだった。
多くのロシア人にとって、NATOとはヨーロッパにおけるアメリカの代名詞
ーーより正確にいえばアメリカ主導の同盟システムおよび権力基盤を意味
している。特筆すべきことに、そこにはドイツへの恐怖ないし敵愾心は
存在していない。20世紀の歴史を顧みるならば驚くべきことだ。
ミハイル・ゴルバチョフは東西ドイツの再統合に同意した。この点で彼は、
英仏伊といった全欧州主要国の切実な感情に逆らって、ジョージ・w・
ブッシュ大統領(父)およびアメリカの側に立ったわけだ。
1994年に旧東ドイツから最後のロシア軍が撤退)すると、これによって
事実上の和解が完了した。第二次世界大戦当時の戦場跡に、ドイツ兵の
墓碑が建てられるなどという、20年前なら信じがたい光景もロシアの
あちこちに見られるようになった。
NATO内のその他の2大主要国、すなわちイギリスとフランスは、2度の
世界大戦ではロシアの同盟国だった。特にフランスは、ロシアの歴史的な
同盟国にして友邦とされてきた。ナポレオンによる1812年戦役とモスクワ
の大火は‘遠い昔の出来事であり、敵意を呼び起こすことはない。シャルル・
ド・ゴールによるNATOの軍事機構からの脱退と、彼が提唱した「大西洋
からウラルに致るまでのヨーロッパ」という概念は、1966年に彼がモスクワ
市庁舎のバルコニーから熱烈な演説を行ったこととも相まって、クレムリン
とロシア国民とに「フランスは敵では7ない」と確信せしめることになった。
冷戦後、依然として東西間の緊張が残る中でも、パリだけはモスクワからの
特別扱いを受けてきた。
イギリスは一度もロシアに攻め込んだことがないにも関わらず、ロシア
は歴史的に、イギリスがより好戦的であると見ている。イギリスはロシアの
辺境部にちょっかいを出してきたからだ。1853年〜54年の戦争で全欧州が
対ロシアで結集した際、クリミアで起こったことはその最たるものである。
(原注:クリミア戦争の初期、トルコ艦隊がロシア艦隊の奇襲で大打撃を
受けたことに対して、イギリスがナポレオン戦争以来の大規模な大陸派遣
軍を編成し、対露戦に投入したことを指す)
イギリスは現実的な敵というよりも、政治的な競争相手であり続けてきた。
特に中央アジアおよびコーカサスにおける「グレート・ゲーム」や、冷戦期
にソ連の仮想敵ナンバーワンであったアメリカとイギリスが密接に協力して
いたことなどは、これに当てはまる。イタリアやスペインのような他の
NATO諸国も、ロシアでは敵と見做されてきたわけではない。トルコのよう
に、ソ連崩壊後のロシアと劇的に関係を改善した国もある。では、ロシア
が‘かくも強硬にNATO拡大に反対するのは一体なぜなのだろうか?
ことの発端は冷戦の終結である。ほとんどのロシア人は、主にゴルバチョフ
の和解政策と妥協のおかげで40年に及ぶ対立から抜け出すことができたと
信じていた。民主派は、ロシアが共産主義を捨てたからこそ冷戦は終わりを
告げたと主張した。このほかに、ソヴィエト帝国およびソ連の解体を指摘
する者もいたが、ロシアのエリートによってその声は圧殺されてしまった。
これら3派の主張により、大部分のロシア国民は、冷戦の終結は、彼ら自身の
選択であり、業績なのだと考えるようになった。もちろん、彼らが単独で、
というわけではない。レーガン、ブッシュ、マーガレット・サッチャー
ヘルムート・コール、フランソワ・ミッテランその他のパートナーの存在が
あってこそであり、それゆえ冷戦の終結は、ロシア、欧州、アメリカの共同
の勝利と言うことになったのである。
このような観点からすれば、ロシアが西側の機構に滞りなく統合されてゆく
という予測は論理的なものであった。エリツィンは、1991年12月にNATOに
宛てた最初の書簡の中で、ロシアが近い将来、NATOに加盟することを検討
して“いる“と書いた。だが、クレムリンにとって驚くべきことに、
ブリュッセルからの返事はなかなか来なかった。そのかわり、ロシア、
他の全ての旧ソ連構成諸国、それにワルシャワ条約機構の加盟諸国は、
北大西洋協力理事会(NACC)に参加するよう招待を受けた。モスクワの
失望は明らかだった。そこで、その2週間後、次のように書かれた書簡が
モスクワからNATO本部に送られたip。先日送った書簡にはミスプリントが
あり、正しくは、“いない“だった、というのである。
多くの西側諸国にとって、ロシアはあまりにも大きすぎて扱いにくく、
あまりに無秩序で、悲惨なまでに整備が行き届かず、そして依然として
あまりに野心的な国家だった。NACCは、ソ連が結んだ軍縮合意を後継諸国
に‘確実に履行‘させることを基本的な目的とする協議グループであったが、
これはゴルバチョフの夢想した「ヨーロッパ人の共通の家」とはかけ離れた
ものだった。ブッシュ大統領(父)が唱えた「統一された自由な
ヨーロッパ」については、そこにロシアが含まれているものかどうか、
エリツィンと彼の外務大臣であるコズィレフは疑問を持っていた。1922年
春、ブッシュ政権はワシントンにおいて、米露同盟に関するエリツィンの
誘いをにべもなく拒絶した。世界中が平和で溢れ返ろうとしている今、
不適当だというのである。NATO加盟へのロシアの希望は瞬く間に雲散霧消
した。1992年にストックホルムで行われた劇的な「二枚舌演説」(原注:
『ロシアは外交政策の概念を修正せねばなりません。・・
依然としてヨーロッパへの仲間入りをすることに重点を置いています。
しかし、我々の伝統というものがかなりの程度ーー主にというわけではない
にせよーーアジアに基盤を置いており、これがためにヨーロッパとの和解
には限度があるということに、我々は今やはっきりと気づいているので
す。・・旧ソ連空間を、CSCE(欧州安全保障協力会議)の規範を完全に
実施すべき地域と考えるわけにはいきません。本質的にはこれはポスト帝国
の空間なのであって、この中でロシアは、軍事力や経済力まで含むあらゆる
可能な手段を用いて自らの利益を守らねばならなくなるでしょう。旧ソ連の
共和国は直ちに新しい連邦なりに加盟することになるでしょうが、その交渉
は厳しいものになるだろうということをここではっきり申し上げておきたい
と思います』)において、コズイレフは、ロシアが孤立すれば起こるで
あろう事態について警告した。1994年、旧ワルシャワ条約機構諸国(ロシア
を含む)とNATOとの安全保障の枠組みとしてアメリカが「平和のための
パートナーシップ」(pfp)を公表したとき、ロシアはこれを受け入れた。
ロシアはしばらくの間、pfpがNATOの代替物となるだろうと考え、pfpを
歓迎する姿勢を見せた。まもなく、ロシアはとてつもない失望を味わうこと
になった。クリントン政権は、いくつかの国がNATO加盟を果たすための
ルートとしてpfpを再編してしまったためだ。
ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアからのNATO加盟の嘆願や、
米国内のロビイストからの圧力を受けてのことだった。
当初、エリツィンはこのような動きを黙認する方針に傾いており、1993年に
ポーランドのレフ・ワレサ大統領が訪問した際、そのむね伝えていた。
だが、ほとんど全ての国防、安保関係者はこれに反対だった。西側との同盟
関係が無い中で、ゴルバチョフ外交が残した唯一のまともな結果は、NATOと
ロシアの間に広大な緩衝地帯を設けたことだった。それが今や消え失せよう
としているのだ。1993年のモスクワ騒乱において軍事力で民族派を制圧した
エリツィンとしては、幾分方針を転換せざるを得ない状況だった。
1993年12月の下院選挙は、共産党と民族派が心理的な復讐を遂げたがごとき
様相を呈したため、民主派は大きなショックを受けた。民主派はこうした中
で、西側の動きをロシアの民主主義に対する不信の表明と受け取った。
つまり、彼らーー民主派を信用しないということだ。こうして民主派は、
ロシア抜きでtNATO拡大を進めればロシア国内で NATOに対する敵対的な
イメージが再燃することは避けられないという警告を発し始めた。彼らは、
旧東側陣営からNATOに加盟する最初の国でなければならないと信じていた。
ドイツ再統合の交渉に参加した人々は、アメリカ側の加盟派にNATOを拡大
しないと約束した、交渉記録を読めば明らかだ、と主張した。従って、
NATOが今やっていることは約束違反だというのだ。この結論は、モスクワに
おける NATOの評判を大いに落とした。 NATOは、冷戦終結とソ連崩壊の
後も消えて無くなろうとはせず、軍事同盟として存続し続けたばかりか、
ロシアとの国境を接する国々を新規加盟国として取り込み始めた。 NATOの
担当範囲内では、ロシアは仮想敵に他ならなかった。西側にしてみれば、
ソ連の継承国の筆頭であるロシアはその結果に甘んじるべきだと考えている
ーー今やロシア人はこう考えるようになっていた。
かつて東西対立の主戦場であった中欧は、勝ち誇った東西の軍靴で乗っ取ら
れており、ロシアが将来、再興した暁には、防衛ラインが築かれるに違い
なかった。
ロシアはまだせいぜい執行猶予扱いといったところであり、多分に疑いの目
で見られていた。このことは、ロシアの政治的エリートたちの間にかつて
ないコンセンサスを生み出すことになった。すなわち、 NATOの拡大は
ロシアの国益に反するということだ。このコンセンサスの基礎は、本質的に
ナショナリスティックなものだった。ようやく芽生えたロシアの民主主義は
心惑わされ、「大国」に道を譲ってしまったのである。 (以下略)
※※※※※※**********************
ポスト帝国ロシアとユーラシア大陸
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ロシア新戦略
ドミトリー・トレーニン 著
河東哲夫、湯浅剛、小泉悠 訳
2012年 作品社 刊
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🦊:この本の著者は「カーネギー国際平和財団モスクワセンター所長。
ゴルバチョフ政権では、外交交渉の最前線を担った。欧米にも
深いパイプをもち、現在のロシア・ソ連諸国について、最も
バランスの取れた分析を行う専門家として、世界的に定評が
ある」ーー本書のカバーより。
p116 重要なことなのだが、今日のロシアにおいては、「運命
共同体」といった、想像上の共同体は存在しない。ソ連が終末を
迎えたために、壮大な規模の共同体(幻想)も終わったのだ。
帝政の時代には共産主義、秘密主義、そして外国旅行の制限に
よって縛られていた。今日のロシアでは社会が形骸化して、公的な
ものであれ、伝統的なものであれ何かの障壁で縛られているという
ことはない。成功した者であればあるほど、一般からの距離は遠く
なる。エリートはいても、大衆を導こうとはしないのだ。公的なもの
よりも、私的なものの方が勝っているのだ。それに社会のどの方向
から見ても、国は腐敗し過ぎていて、民族的な意識を掻き立てるもの
にはならない。ロシア人は、(旧ソ連の崩壊によって)国の政治、
経済、社会、そして精神的なもの全てが突然崩壊するというトラウマ
を経験しているために、私的な生活の方を大事にするようになった。
国境の線引きとか、政府の陣容などには構わない。血縁、地縁、
そしてコネは残っている。かつては同じ共同体を重んじ、強く
愛国主義的だったロシアは、個々人の中に閉じこもってしまった。
だからかつては皆の生活する場であった公共のスペースは、今では
全く手入れがされていない。集合住宅の住居部分はどこかの国の
大都市のマンションであるかのように改装されメンテナンスも
いいが、共用の階段は薄汚れ、エレベーターは軋む。だがどうにか
しようとする者はいない。
自己防衛のためのナショナリズムを産むような、外国からの軍事的
脅威を感ずるものは全体の37%しか居なかった。この数字は、コソヴォ
紛争直後の2000年には49%、イラク戦争開始後の2003年には
57%であった。2009年にはロシア住民の52%は、外国からの脅威
はないと答えており、政府も同様の立場である。それによって
軍の改革は20年も遅れて、やっと2008年に開始された。軍備の
近代化に至っては、2010年代の課題として棚上げされたのだ。
祖国を守る「聖なる」はずの国防が二次的なものとされたのも、
不思議ではない。ロシアに住む人々は、安全保障、国防に過度の
負担をすることには同意するが、自分自身が軍事行動に引き込まれる
のは嫌がるのである。脅威が存在していることを認識している者
でさえ、何かを、ましてや自分の生命を犠牲にする用意はない。
世界の利益となることであろうが、(かつてソ連がアフガニスタン
に介入した時に言われた)「世界に対する責任感」に賛同する者は
14%しか居ない。自分自身の国のためであろうが、(33%しか
国を守ろうとしない)である。外国からの攻撃に対してロシアを
守る用意のある者は57%しかいないのだが、そのような攻撃は、
現時点ではおよそあり得ないだろうと思っているようだ。これに
対して、自分自身と家族を守る用意のあるものは88%にのぼる。
国益を最も大事なものとするのは6%しかおらず、80%は自分自身
の利益が最も大切だと答える。・・
プーチンは、・・今日的なロシア主義とでも言えるものを推進した。
これは反共産主義であると同時に反リベラルでもあるものである。
その基本的な価値観は、権威主義的な国家、そして政治力の集中
である。経済力は政治力に根ざすものとされて、政治力に従属する。
それに、宗教的な価値観(特にロシア正教の)、愛国主義、外交戦略
における自律性の維持、そして大国としての地位の保持が加わる。
保守主義者たちは、自分の権力を維持するためには近代化を支持する
ことさえある。ただし、それが自分達の権力を危うくしない限りにおいて
であるが。
保守主義者たちが民主主義に対して示す態度は、興味深いものだ。
彼らは民主主義を目標とするのではなく、民主主義のいくつかの
成分を、自分たちの行うことを正当化するために利用する。
プーチンはエリツィンそしてゴルバチョフという前任者たちの経験
から一つのことを学んでいる。それはこの二人とも、初期は人気が
高かったが、じきに支持を失い、権力を譲渡しなければならなく
なったということである。・・そこでプーチンは、権力を維持する
ためには、圧倒的な人気を獲得してそれを維持し続けなければ
ならないと悟ったのだ。それを彼は実行し、メドベージェフに
それをバトンタッチした。プーチンが奉じているもう一つの教訓は、
人気というものは個人についてまわるものだということである。
与党や政府が指導者の人気にあやかることはできず、他方、政府に
反対する者たちが大衆的な人気を博するのを許してはならないのだ。
こうして、権力を(プーチンという)一人の人間に代表させることで、
個々人に分裂してしまった社会を繋ぎ止める、というやり方が、ソ連
崩壊後のロシアで安全性を確保していく秘訣として当面機能している
のである。
私は、選挙における票の操作ーーさんざん糾弾されているーーのことを
言っているのではない。主なテレビを支配することは、エリートが
権力を保守するためには死活的に重要なことではあるが。ここで
言っているのは、年金を除いては予算の全部を削ってみせるようなーー
年金額は伸びる一方だーー、人気取りを目的とした政策のことである。
年金生活者というものは、他のどのグループよりも熱心に投票に行く
のだ。こうして、ソ連以前からのロシアの社会に根を張っている、
家父長的な政府を求める声に応えることで、プーチンの人気は獲得
されたのである。そのような声は、共産主義政権の時代に益々強く
なっていた。しかし、これらの者の支持に依存することは、帝国を
維持することにもつながる。それは、ロシアを含む国際的な
状況に益々そぐわないものになっているのである。
他方、ロシアが再び民主主義に向かって歩み出せば、今度は「民族
問題」、そして領土問題が起きかねない。独立運動がコーカサス
北部以外にも台頭するかもしれない。2010年の国勢調査においては、
カリーニングラード市民の中には、自分達はロシア人であるよりも、
「カリーニングラード人」だ、とする者がいた。
同時に、ロシア人の心の中では、民族というものを超越しようとする
気持ちよりも民族的な要素のほうが勝ってしまうのかもしれない。
民族主義はこうして、ロシア国内の境界線、そして外国との国境を
不安定なものとしよう。圧力が高まって、これらの境界、国境が
不安定になると、広範な地域の安定が脅かされることになる。
p36 ポスト帝国の定義
私は「ポスト帝国」という言葉を使っているが、今日のロシアを
形容するには他に良い言葉もあるだろう。私にとってこの言葉は、
帝国としての状態からかなり時間をかけて脱していく過程を表す
ものにすぎない。ある国がもはや帝国ではなく、帝国に戻ることは
ないが、帝国であった時代に染み付いた多くの特徴をまだ残して
いる時期のことである。ロシアは共産主義から資本主義に移行する
過程で道を見失い、またそうなってしまった理由も定かでない状況
にある。そして終着駅が定かには見えないような、歴史的な変容が
進行しているのである。つまりソ連の衛星国、そして諸共和国と
違って、ロシアは帝国が残したものと取り組まねばならなかった
のであり、それ故に西側に溶け込むこともできず、西側とうまく
やっていくことさえもできずにいるのだ。2000年代にロシアの
社会は変わった。消費が盛んとなり、中産階級が台頭した。しかし
政治など公共生活の面では、90年代に比べて後退が見られた。
国内の政治においても外交においても、帝国的な要素が目立つ。
今日のロシア連邦は、国内においては新ツァーリズム的とも言える、
やや強権主義的な政体である。それは、国民の同意を得た強権主義
であるとも言えよう。外交面においてもロシアは、かつてのソ連邦
構成共和国を別個の国と認めながらも、その全てを外国として見て
いるわけではない。
何人かの学者と専門家は、ロシアはまだ完全には分離していない
帝国であると主張している。つまり、ソ連の崩壊には最後に
ロシア連邦の分解ーー部分的なものかもしれないがーーが
続くはずだというのである。彼らはこうした過程は21世紀
初頭の今、一時的に止まっているが、北コーカサス、そして
もしかすると他の地域にも及ぶだろうと言う。・・
他の数々の帝国も完全には分解していないことを述べて
おきたい。イギリスはジブラルタル、フォークランド諸島、
バミューダ諸島、ディエゴガルシアその他の小さな領土を
いまだに保持している。フランスはギアナ、グアダルーペ、
タヒチなどおよびDOM-TOMと略称される広大な海外領土を
維持しているし、オランダでさえヴェネズエラの沖に幾つか
の島を領有している。これら、かつてのヨーロッパ植民地主義
の最前線に共通して言えることは、プエルトリコの対米関係
についても言えることだが、ここに住む人たちが以前の宗主国
との関係を維持したがっているということである。
主権というものよりは、経済的な繁栄と社会的な進歩の方が
重要なのである。だがこの点については、ロシアが同じような
ものを提供できるかどうかが決定的に重要になる。(中略)
ロシアはヨーロッパ安全保障と経済にあまり組み込まれて
いない一方、独立した周辺国との関係を御していかなければ
ならない。課題は主なものだけでも大変なものである。
こうした状況は長く続くだろうから、ロシアは自分の場所と
役割、そして重点をおくべき政策とそれを実現する方法を
探して迷走するに違いない。これらの課題にどう決着を
つけるかは、ロシア自身にとってだけでなく、その隣国
や中国、EUといった東西の大勢力、そしてアメリカに
とって非常に重要なことである。アメリカでは、ソ連帝国が
崩壊して以後はアメリカがユーラシアの主要勢力になった
ように考える専門家達がいた。だが、ある年長の外交官に
よれば、米政府の主要な関心は、ソ連が復活するーーもう
あり得ないことであってもーーのを妨げること、そして
ユーラシアでの米国のプレゼンスを維持し、ロシアによって
締め出されるのを拒むことであって、ユーラシアでの優位な
地位を占めること自体は目的とされていない。
ユーラシアはとてつもなく巨大で、信じられないほど多様だが、
経済、政治、そして軍事面で益々一つにつながりつつある。
毎年(ASEANを中心に)開かれるアジアとヨーロッパの間に
開かれる ASEMその他の会合は、ユーラシア内部の結びつきが
強まっていることの象徴である。EUの東へ向けての拡張、
中国、インドそして韓国の交流、トルコとイランの人口増と
政治面での活発さ、パキスタンとアフガニスタンに絡む危険性
とリスクの数々、現代に蘇ったシルクロード、そしてカスピ海
の東西に向けて伸びる石油、天然ガスのパイプラインなどの
新しい輸送路、これらすべてのことは、ロシアがまだ行方の
定まらない旧ソ連諸国の外側で、自分より豊かで活気とパワー
があり、人口も多い諸国、そして彼らが形成する同盟や連合に
囲まれている。「ヨーロッパでは最後尾だがアジアでは先頭」
という存在ですらありえず、ユーラシアの東西において遅れた
周縁部になってしまう危険性に直面しているのである。・・
しかし、旧ソ連地域で帝国主義の残滓を引きずっているのは
ロシアだけではない。皮肉なことだが、ソ連から分化した
新しい諸国家も、帝国、そしてある場合には植民地主義の
シンドロームを持っている。それら諸国は以前の宗主国たる
ロシアからあえて距離をとり、自国のために何か新しい神話を
作り上げて歴史を書き換える一方で、その振る舞いはソ連的と
称される数々の特徴ーー二枚舌、本音の欠如、そして頑迷さ
ーーを示しているのだ。
今では「元のソ連」とか「旧ソ連圏」などといっても、ユーラシア
の将来を考える上でほとんど役に立たない。個々の国がどうなるのか、
ということの方がより大きな意味を持つ。多分、ヨーロッパ東部
では最大のウクライナ、中央アジアでは最大の人口を持つ
ウズベキスタンと天然資源に富むカザフスタンなどが、地球の
トレンドを作り出す重要な国となるだろう。しかしグルジア、
クルグスタン(キルギス)のような小さな国であってもその近隣
を超えた問題となりうる。これらの国は、領土の一体性を保持
する一方で、国内の諸民族の権利も擁護しなければならず、
国家を建設していく一方で国際的な視野も持たなくてはならない。
また、石油、天然ガスのパイプラインをめぐる国際政治や、近隣国
への出稼ぎ・移住の問題も、帝国そして植民地主義が崩壊した後の
課題として、これら諸国の前に立ち現れる。
だが、こうした課題の性質を理解し、うまく処理していくには、
近年の出来事、そして過去の歴史を振り返って見なければならない。
※※※****************************
🦊: 原爆の生みの親、大悪魔のオッペンハイマーが、第二次大戦の
終盤で、まだドイツが降伏していなかったら、果たしてドイツに
原爆を投下することに同意しただろうか?
彼は晩年、広島の原爆被害の実態を知って、大いに後悔したのだそう
だが、そのため、早くから核の拡散防止について提言していたという。
今、ウクライナへのロシアの侵攻の現場で、軽量核兵器の使用が現実味
を帯びてきている。まさかヨーロッパで核戦争は起こるまい、と誰もが
油断していた。1968年の核不拡散条約は守られ、NATOと核大国
アメリカの醸し出す抑止効果を疑うことは無かった。
だから、突然プーチン大統領が反米感情を募らせて、国境を乗り越えて
ウクライナを呑み込もうとしたことにびっくり、国連も経済封鎖以外に
これといった対策も浮かばないまま、1ヶ月が過ぎた。「拡散防止」は
紳士協定であるのに、プーチンは紳士ではなく、戦争犯罪者だから始末に
悪い。
この本の著者は、2012年の段階で、ロシアは旧ソ連諸国に侵攻する
つもりは全くないと証言しているが、それから10年経って、その予言は
けし飛んだ。
戦争の行方はいかに。
2022
悲しみの森……………絵葉書で有名な観光名所「バオバブの並木道」に向かうには、首都アンタナナリボからランドクルーザーで約13時間。山道に車を停めて、尾根の向こう側から白い煙が上がっているほうへ歩いていくと、突然目の前に見渡す限りの焦土が広がった。焼畑だ。
マダガスカル……約25万種の野生動植物が生息し、世界自然保護
基金(WWF) が野生動植物の宝庫と認めるこの島ではいま、森林
破壊が止まらない。 p132悲しみの森…………マダガスカル 絵葉書
で有名な「バオバブの並木道」に 向かうには、首都
アンタナナリボ からランドクルーザーで約13時間。途中、 尾根
の向こう側からいく筋もの 白い煙が上がっているのが見えた。
森が焼き 払われ、周囲には白煙と焼け こげた匂いが充満して
いる。マダガスカルで続 く焼畑の現場だ。 世界銀行などの統計に
よると、1980年に約900万人だった マダガスカルの 人口は、
2013年には約3倍の2360万人に膨れ上がった。
国民の約8割が農民だ。かれらは森を焼き払って水田や畑を作
り、主食の 米 などを栽培している。多くの人が今でも煮炊きに
薪や炭を使う。WWF などの調査では年間約20万ヘクタールも
の森が失われており、すでに 自然林 の8割が失われてしまった。
このままのペースで破壊が進むと、 40年以内 に島から森が消失
してしまうという。 人間たちはどうか? ムルンダバから4時間
かけてキブイ村にむかうと、山奥の集会所では村人と
マダガスカル政府の焼畑対策チームの役人たちが向き合ってい
た。 政府は 森林利用の全てを禁止するのではなく、保全用や燃料
用、農地転換用 に森を 区分して管理する方針を打ち出している。
その方針に村人たちは納得 できな い。村長のウイリアム・
デルフィンは私の取材に憤った。 「我々はずっと 薪を使って料理
をし、焼畑をして生活してきたんだ。森を 焼くなと急に 言われて
も、生活を変えるのは難しいだろ!」 高さ10m、幹の周囲が
10m以上もあるバオバブの巨木が立ち並ぶその周囲 には、なぜ
か森が 存在しない。「昔は森があったのです」と自然保護団体
「ファナンビー」の ランドリア・リニアは言った。「バオバブの
種は硬くて それ自体では発芽 しにくいのです。サルなどの野生
動物が鋭い歯で砕き、 消化してフンとして 出して初めて発芽しや
すくなる。近くに動物がいない と、バオバブは子孫を 残せないの
です」 「やがてこの雄大な景色も姿を 変えていくでしょう」
p130 「アフリカの天井」で起きていること 「アフリカの天井」
と呼ばれて いる、エチオピア北部の世界遺産「シミエン 国立
公園」を旅した。太古の 地殻変動などによって隆起した4000m級
の 断崖絶壁が続く高原地帯は、 厳しい自然環境によって守られた
希少な 野生動物が息づく「楽園」として 知られている。国立公園
に入り口から 四輪駆動車で約2時間半。標高3600m チェネック村
に到着すると、落差数百m の断崖絶壁が足元に広がり、崖の上 に
は広大な草原が広がっており、 エチオピア周辺の高地だけに生息
すると いうゲラダヒヒが穏やかに草を 食んでいる。 そんな固有
種たちの楽園が長ら く存亡の危機にさらされている。原因は 国立
公園の農牧地化だ。法律で禁じ られているにもかかわらず、公園
内の 草地を耕して農地にしたり、馬や羊を 放牧したりする先住民
たちが後を 断たない。農牧地化は、1980年代から90 年代にかけ
て急速に進んだ。 1990年代まで続いたエリトリア独立戦争などの
影響で、公園の周辺地域に 多くの難民が流入し、公園内で生活を
営むように なった。すでに農耕地化で 公園内の森の約8割が失わ
れてしまっている。 政府は従民たちの法律違反を 原因に挙げる
が、本当のところどうなんだろ う? 公園内で羊の放牧を長年続け
ている古老アルベル・ミギルに意見を聞く と、 首を振りながら
不満を漏らした。「高原を荒らしているのは、俺たち じゃ ない。
「世界遺産」だと言ってこの地を観光地化し、金儲けを企んで
いる 欧州人や都会の役人たちだよ」エチオピア政府は近年、世界
有数の壮大 な 風景を資源として、公園内で農牧する人たちを観光
の仕事に誘導すること で 自然破壊を食い止めようとしている。
公園内にキャンプ場などを作り、 2000年には約1300人だった
観光客が、2014年には約2万人超へと爆発的に 増えている。とは
いえ、政府が進める観光地化で、本当にこの美しい自然を 守れる
のだろうか? その時、公園内のカウンターの棚の上に、初代
公園長の 写真があるのが目に 入った。Clive William Nicolーー
ー日本でも有名な C・W・ニコルだ。 私は村の中心部のカフェ
から、かつて取材したことの あるニコルに国際電話 をかけて
みた。 私はおそらく日本で最もシミエン国立 公園の実情をよく
知るニコルに、当時 と今の公園内の自然環境の移り変わり に
ついて尋ねてみた。 「当時は今では想像もつかないくらいに公園
内には 素晴らしい自然がその ままの状態で残されていた。見た
ことのない草木や 花があふれ、まるで 「桃源郷のようなところ」
だったよ。実は昨年、45年 ぶりにシミエンを 訪れたんだけれ
ど、森がほとんど失われてしまっていて ね。美しい草花も 消えて
しまっていた。最大の原因はやはり家畜で、草や 木の根が根こそ
ぎ 食べられてしまっている」 「やはり、観光業に移行する べき
なんでしょうか?」 「どうだろう」とニコルは言った。(一呼吸
入れて) 「そこから先はきっと、 私がコメントすべきことじゃな
い。だっていま、 君はシミエンにいるん だろう?なんでも話を
専門家にきいて、それを他人事 のように書いて伝える のは、日本
人の新聞記者の悪い習慣だよ。目の前で 偉大な自然が失われて
いく。一方で、ドルやユーロを財布に詰め込んだ白人 の観光客
たちが、 粗悪な写真がプリントされたTシャツを着てピザを
ビール で流し込みながら 下品な笑い声を立てている。そんな
シミエンを、現地の 人たちは果たして 喜んでいるのかい?自分の
目で見た光景を、自分の知識と 感情に照らし合わ せながら、自分
の内側から湧き上がる言葉によって伝え る。それが君の仕事 だ。
変わってゆく「アフリカの天井」の姿を、今そこに 居る君が
伝えるん だよ」
🦊 ここまでの記事は、「天井のアフリカ」であったが、ここか
らは 「煮え たぎった釜の底」のアフリカについて、心も冷える
ルポルタージュ が続く。
p18 玉ねぎと換気扇——-エジプト 2013年8月、エジプト・
カイロ支局の 編集室に先輩記者が飛び込んできた。 「とんでも
ないことが起きている。 テレビを見てくれ」 テレビ画面には奇妙
な映像が流れ始めていた。場所は 中東のシリア。 廃墟のような
場所に、次々と子供達が運び込まれてきて いた。オムツをして
いる乳児、三つ編みの少女、子供達に抱きつく母親の 姿………
よく見ると、子どもたちは皆、口から泡のようなものを吐き出し
て いる。 大人たちは大慌てで子供達の服をはぎ取り、バケツや
ホースで顔や体 に水を かけていた。しばらくすると周囲で震えて
いた子供達が床に倒れ始め た。 大人たちは子供達に心臓マッサー
ジを施しはじめた。 「毒ガスだ。子供 達がやられた………」画面
の中で男性が叫んでいるアラビア 語を近くにいた 取材助手に訳し
てもらってようやく、そこで何が起きている かを理解でき た。
反政府勢力が支配するシリアの首都ダマスカス近郊の街で アサド
政権が 居住者に向かって化学兵器を使用し、子供を含む多くの
住民に 犠牲者が出た ようだった。 大学、大学院で有機合成化学
を専攻した私には少なからず見識 があった。 あのオウム真理教の
事件でも使われた猛毒ガス----サリンだ。 化学兵器を使用した
民間人への攻撃に対し、国際社会は強烈なアレルギー 反応を起こ
した。米国は「アサド政権が化学兵器を使い、426人の 子供を
含む1429人を殺害した」と断定し、国連では連日連夜、
シリアへの軍事 介入の是非を巡る議論が交わされた。 カイロ支局
でも常勤特派員がシリア 行きの準備を進める中、私はカイロに
留まって、現地から送られてくる国連 機関からの報告書をもとに
記事を書く よう命じられた。 調べてみると、 シリアの人権団体
がすぐさま周辺地域の医療機関を回り、 詳細なリポートを ネット
上にアップしていた。それらを読み込むことで、 なぜ犠牲者の
多くが 子供や女性によって占められているのか、その理由を
おぼろげながら理解 することが出来た。 アサド政権はその日
未明、学校や電話施設を狙って30 発以上のミサイルを 打ち込ん
だ。男たちは被害の状況を確認するために屋外 へと飛び出し、
女性や子供は更なる爆撃を避けるため、堅牢な地下室へと 逃げ込
んだ。 化学兵器による攻撃に対しては通常、高所に避難しなけれ
ば ならないことに なっている。毒ガスは成分的に空気より重く、
着弾後、低所 へと流れ込む ためだ。結果、「死のガス」が女性や
子供達が避難した地下室 を襲った。 (現場に駆けつけた数多くの
救急隊員からの証言によれば)ある 隊員は「母親が 赤子を抱えて
換気扇の前で死んでいた。酢の瓶と幾つかの タマネギを握り 占め
て換気扇の前で死んでいた」と報告していた。報告書に は酢と
玉ねぎが 何回も出てくる。化学兵器に効く---あるいは現地には
そんな 迷信があった のかもしれない。 「唇が膨れ上がり、すぐ
目が見えなくなる こと。子供達は激しく震え、 やがて意識を
失った」(ある医師の報告)「吐き 気や泡のような唾液、引き
つけ、心臓疾患、鼻血、幻覚、記憶喪失など、 爆撃から約30秒
で症状が出 ている」 攻撃を受けた地域には内戦の影響で、 満足
な医療機関が存在せず、避難所に は服を着替えるための個室さえ
なかっ た。ゆえに女性たちは化学物質が 付着した服を脱ぐことが
出来ず、そのまま 重症化し、命を落としたらしかっ た。薬や
ベッドも限られており、使用期限 の切れた薬は優先的に子供に
使い、大人には家畜用の薬を使っていた。見つ かった遺体の6割
は身元を 確認出来ないまま共同墓地に埋葬された。 生まれ た
国や地域が違うだけで、人の命がこうも簡単に、こうも残酷に
葬られて いく。なんて不公平なのか、なんて不平等なのか………
私は悔しくて、悲しく て、心が擦り切れそうになりながら、その
一方で、 安全なカイロ支局の中に いて、現場にも行かず現実を
直視することもせずに まるで現場を見てきた かのような「国際
ニュース」をそれっぽく書いた。
p26 元少年兵たちのクリスマス
内戦が続く「中央アフリカ共和国」は、 世界で最も危険な国の
一つだ。人口 わずか480万人の諸国であるにもかかわ らず、
武装勢力に誘拐されて囚われて いる子どもたちの数は約1万人。
国連 児童基金(ユニセフ)は、「子どもたちに とって世界で最悪の
国」と糾弾して いる。 現実を知りたくて、中央アフリカの首都
バンギを訪れた。比較的安全 な 首都中心部の市街地から、機関銃
を積んだ国連の走行車両が鎮座する検問を抜けて郊外へ出ると、
赤土の大地のあちこちに銃撃で蜂の巣のようになった商店や民家が並んでいた。
中央アフリカがフランスから独立したのは 1960年。すぐさま豊富
な鉱物資源の利権をめぐって政情不安に陥り、2012年にはイスラム教徒とキリスト教徒の対立が激化して、血で血を洗うような
民族紛争に発展した。約250万人の子供たちが戦闘に怯えながら
生活を送る中、ユニセフや国際NGOは必死に武装勢力に誘拐され
た子供たちを救い出そうとしているが、うまくいかない。
2014年までにユニセフが武装勢力から 解放できた子どもたちは
約2100人。彼らは誘拐された後、使用人として荷物を運ばされ
たり前線で戦闘に参加させられたり、性的虐待を受けたりして
いた。
バンギの中心部で数日間取材した後、ちょうどクリスマスの日に
武装 勢力から解放された子供達を保護していると言うある国際
NGOの宿舎に招かれた。半砂漠地帯を四輪駆動車で約40分
高い塀に囲まれた民家の前では子供たちがうれしそうに
クリスマスパーティーの準備をしていた。10歳 から19歳 まで
の155人。いずれもその年にイスラム教系の武装勢力から解放
された元少年兵だという。NGO職員の仲介で二人の元少年兵が
取材 に応じ た。
「両親が殺された時、僕は17歳でした」19歳のンガングは
うつむきながら過去を語った。故郷の村がイスラム教系武装勢力
に襲われた時、妹が逃げ遅れて捕まった。
両親が 妹を返すよう武装 勢力と交渉に向かった直後、銃声が響い
た。慌てて駆けつ けてみると、路上 に3体の遺体が並べられて
おり、そのうちの2体が両親の 遺体だった。 翌日、 彼自身も銃を
持ったイスラム教系の戦闘員に囲まれ、森の中へと連行された。
イスラム教系の戦闘員に囲まれ、森の中へと 連行され た。
「逃げたら殺す」とおどされ、すぐに射撃の訓練が始まった。
キリスト教の村を襲撃することを告げられたある日、同じ
学校に通っていた友人8人が「殺したくない」と抵抗すると
リーダーは8人全員を壁の前に 並ばせ、 カラシニコフ銃を
乱射して皆殺しにした。以来、逃げることを考え られなく なり、
村を襲って食糧と女を奪い、南下する生活を3ヶ月続けた。
「夜明け前に村を包囲し、日の出と共に威嚇射撃をする。
逃げてくる人は 決して撃たない」
ンガングはそれがまるで何かの規則であったかのように 私に告げ
居座ったり抵抗したりする人は容赦ゃなく撃った。「でも
30人殺したところまでは覚えているが、その先はよく憶えていな
い………」殺さなければ 殺される。
16歳のナンボは数年前、故郷の村がイスラム教系 の武装勢力に
襲われ、友人と自主的にキリスト教系の武装勢力に加わった。
その年の秋、村がイスラム教系の武装組織に襲われて30人が
死亡し、10 人の女性がレイプされた。うち2人は級友で、
レイプの後に殺された1人は 結婚を考えていた彼の
ガールフレンドだった。数ヶ月後に再び村が襲われたとき
だった。 数ヶ月後に再び村が襲われた とき、ナンボは
敵のカラシニコフ銃に対し、毒を塗ったナタで応戦した。
彼曰く「3分間ルール」が存在 している。カラシニコフ銃は精度
が 悪く、標的が動いていれば、まず当たらない。
弾倉内の弾はわずか3分で底 をつく。3分間逃げ切ればこっちの
勝ちだ」たまは当たっても死なない が、ナタがかすれば毒で死ぬ
……… アフリカでの戦闘は依然、銃ではなく てナタなのだ。
少なくとも彼らは そう信じ込んでいる。やがて敵の弾が切れ
始め、仲間が敵を捕え始めた。 ナンボも敵の腕を掴んで引き倒そ
うとした瞬間、近くにいた仲間の一人が
「これは俺のケーキ(獲物)だ」と叫んで、頭上からナタを敵の
首筋に振り下ろした。
「それが僕にとっての最後の戦闘の記憶です」
クリスマスの日、元少年兵とたちは宿舎の前の広場で輪を
作り、太鼓や笛の リズムに合わせて激しく踊った。NGOから
プレゼントされたノートや鉛筆などを景品としてゲームを楽しみ
マンゴーを食べて少し休むと、ふたたび飽きることなく踊り続け
た。「彼rにとっては久しぶりのウリスマスなのよ」と私の横で
NGOの女性が言った。「彼らの多くは最近までイスラム教系の
武装勢力に捕らえられていたから」 ねえ、踊ろうよ……
そう誘われて私も彼ら の輪に加わった。リズムに合わせて 激しく
腰を振ると、ワッと甲高い笑い声が上がり、ヒューと幾つかの
口笛が飛んだ。
踊れ、踊れ、踊れ、踊れ……… 膨大なエネルギーが渦を巻き、
広場回転し続けていた。
踊れ、踊れ、 踊れ、踊れ……… 私は全てを忘れたかった。
p30 九歳の花嫁…………ケニア 私が初めて結婚したのは9歳の時
でした。相手 は見知らぬ七十八歳の老人 でした。ケニアの首都
ナイロビから車で北に約 8時間、牧畜を営むサンブル 民族が住む
マララル村で、中学校に通う ユニス・ナイセニャはうつむき なが
らインタビューに答えた。廊下で級友の 呼び声に恥ずかしそうに
右手を振って応える、まだあどけなさが残る16歳の 少女だ。
アフリカやアジアなどを中心に残る「児童婚」。アフリカでは
人口 増を 背景に、2050年までにはその被害者数が3億人に上る
と予想されて いる。 サンブル民族にはいまも、女子児童を成人
男性と結婚させたり、結婚 前に 女性器を切除したりする風習が
色濃く残っている。幼くして結婚させら れた 「花嫁」たちは、
学ぶ機会を奪われたまま、性行為や労働を強要され る。 9歳
だったナイセニャは7年前、父親に結婚を命じられた。学校に通い
たい と反発したが、許されなかった。78歳の夫と一週間暮らし
たが、 性行為を 拒むたびにムチで打たれたため、「嫁ぎ先」から
にげだし、児童婚 の 撲滅に取り組むNGOの施設に飛び込んだ。
「もうあんな思いはしたくは ない」とナイセニャは恥ずかしそう
に言った。 「老人とセックスするなんて 本当に嫌よ。恋愛くらい
自由にしたいの」 同じ中学校に通う15歳の クリステイン・
ナシャキも、12歳の時に 無理やり両親に結婚させられた 被害者
だ。相手は62歳の男性で、「父親 より年上なので、嫌で吐き
そうに なった」という。 結婚後は学校に通わせてもらえず、
「家畜のように(本人 談)仕事をさせられ た。一日3回、
20リットルの容器を抱えて5キロ離れた 小川まで水を 汲みに
行き、10キロも離れた市場にミルクを運んで全部売り 切るまで
は 家に帰してもらえなかった。家にかえると、朝までセックスを
強要され た。ナシャキを見かけなくなった学校の女性教師が
「児童婚の疑い がある」 と警察に通報し、捜索の結果、救出され
た。 ユニセフによると、 ケニアでは20歳から24歳の女性の
うち、18歳未満 で結婚した人の割合 は23%、15歳未満で
結婚した人は4%にも及ぶ。 ケニア政府は児童婚を 禁止する法律
を制定してはいるが、「伝統」が 大きな壁になり、思うように は
改善していない。 ⒐歳の娘を結婚させた経験を持つ47歳の母親
は 言った。「夫が牛と持参金 を受け取ってしまったんです。そう
なるともう、 村の『しきたり』で結婚を 拒むことはできません」
11歳の娘を嫁がせたと いう45歳の母親は釈明する。「夫が
『友情の証し に』と、娘をその友人の 息子と結婚させたんです。
この村では伝統に逆らう と、私たちも集落から 追放されてしまい
ます」 村を離れる時、荒野を歩く村の成人女性たちの集団 と
出くわした。サンブル 民族は、日本でもよく知られているマサイ
族の遠縁 にあたり、女性は 首にビーズなどで作られた豪華な
首飾りを巻いている。 その首飾りの持つ意味について、ケニア人
である現地助手は、四輪駆動車 の 中で私にこう教えてくれた。
「ケニア北部のある村では、首飾りの数が 親類の男たちとの
性交渉の回数を表すんだ。性交渉が終わるごとに女性には 首飾り
が捧げられ、女性たちはその首飾りを『勲章』としていまも首に
巻き つけている」 苦しそうに重ねて言った。「そんな『狂った
伝統』、絶対変え なきゃいけないよ。これ以上、少女たちに
『痛み』を押し付けちゃいけない んだ」
p40 自爆ベルトの少女…………ナイジェリア 農村の学校を襲って
少女たちを 誘拐し、身体に爆弾を巻きつけて市場や バス
ターミナルなどに誘導した後、 遠隔操作で爆発させる………
そんなあまりにも残酷な「自爆テロ」が、 西アフリカの
ナイジェリア 北東部で続いていた。犯行を主導しているのは、
イスラム過激派 「ポコ・ハラム」、名前は現地語で「西洋の教育
は悪」を 意味する。 2015年3月、テロの撲滅を公約に掲げて
軍出身のブハリが新大統 領に 当選した後も、テロの勢いは衰える
気配を見せず、新政権に発足後の 約 1ヶ月間に犠牲者は早くも
200人を超えていた。 彼らの憎悪の根底にある ものは何か。
ナイジェリア北部に主要都市カノ。町の中心部にある中央市場 に
着くと、 壁にはまだ、半年前の爆弾テロでできた無数の破片が
残ってい た。 露天商を営む、爆風で右目を負傷したという男性が
証言してくれた。 「市場の入り口から17歳ぐらいの、真っ黒な
ベールを被った少女が 泣き そうな顔でこっちに歩いてきたんだ。
どうして悲しそうな顔をして いるんだ ろうと、目を凝らした
瞬間、閃光が少女のベールを引き裂き、 大きな火球が 彼女の肉体
を吹き飛ばしてしまった……… 国際人権NGO「アムネスティー・
インターナショナル」によると、2014 年以降の約1年間で、
ポコ・ ハラムに誘拐された少女や女性は約2000人、
2015年上半期だけでも自爆 テロが30件以上起きており、その
4分の3で 子供や女性に爆弾が装着さ れ、遠隔操作で爆発させ
られていた。 現地の国際NGOの協力をえて、カノ 郊外の民家
で、ポコ・ハラムから逃れて きたという二人の女性から話を聞く
ことができた。 「昨夏、自宅のある北東部グウオザがポコハラム
に襲わ れ、約600人の 市民が殺された。私も銃を突きつけられ
て、2歳の長男と 行政庁舎へと 連れて行かれた。庁舎には町の
女性たちが集められており、 リーダー格の男 が「お前たちはこれ
から戦闘員の妻になる」と宣言した。 戦闘員の食事を 作ったり
服を洗濯したりするよう命じられ、従わない女性は 棒で激しく
体を 叩かれたり、隣の部屋に連れて行かれて集団でレイプされ
た りした。 別の女性も激しい「暴行」を受け、「このままでは
体を引き裂かれ て しまう」と感じ、2日後の夜、20人の女性と
フェンスをよじ登って にげ だし、カメルーン国境で国連部隊に
保護された。 なぜ、ナイジェリアで陰惨 な悲劇が続くのか。
軍出身のブハリ大統領がポコ・ハラムの撲滅を誓い、 政府が特殊
部隊を 送っても、周辺5カ国が約7500人態勢の連合軍を創設して
も、 ポコ・ハラムは一向に弱体化しない。「本当は誰もがポコ・
ハラムの 撲滅 なんて望んでいないのさ」とナイジェリア人
ジャーナリストが教えて くれた。 「ナイジェリアはもともと、
イスラム教徒が多く暮らす資源が乏し い 北部と、キリスト教徒が
資源豊かな南部に分断され、互いが憎しみ合って いる。豊かな
南部の人間は、自分たちの税金が北部のポコ・ハラム対策に 浪費
されることを嫌っている。彼らにとって、北部の市民やポコ・
ハラム なんてどうでもいい存在なんだ」一方、北部カノに拠点を
置く海外通信社 の ベテラン記者はこんな見解を口にした。「軍に
はいま、ポコ・ハラム対策 で 膨大な予算がついている。北部には
軍の駐屯で多額の資金が落ちている。 「悪」を必要としている
のは、むしろ軍や北部の有力者たちだ。彼らが必要 とする限り、
ポコ・ハラムは北部に存在し続けるし、結果、テロが終わる
こともない」 ポコ・ハラムが北部で台頭している真の理由、
それは北部の 市民や若者 たちがむしろ、自国に政府から家族や
生活を守るために、ポコ・ ハラムに 身を投じているせいでは
ないのか………… ユニセフの報告によると、 ポコ・ハラムは武装
集団となった2009年から 2015年までにテロで1万5000 人以上の
市民を殺害している。他方、 アムネスティ・インターナショナルの 報告によると、ナイジェリア軍もまた 対ポコ・ハラム作戦で
市民を拷問し、 8000人以上を虐殺している。 少女たちは軍や
政府の有力者たちの地位や予算 やマネーゲームのために、 その
細い肩に今日も爆弾を装着されることにな る。
🦊 「戦争は儲かる」というのが、人間の第一番目の疑問と正解
であるらし い。狭い地球から、儲からない自然と動植物をできる
限りオッパライ、 つい でに儲からない人種を爆殺し、儲けるため
ならばそれが正義。 それが人類。
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白人になれない白人たちーー中欧の反リベラリズムとレイシズム
アイヴァン・カルマー著 加藤恵津子、神原ゆうこ、
坂田淳志 訳 彩流社 2025年 刊
🦊 はじめに本の値段を言うのは気がひけるが、この本は、年金暮らしの老人にはちと高い。でも、きつねの疑問を解消してくれ、おまけに読んで面白い。おすすめの一冊です。
白人になれない白人たちーーー中欧の反リベラリズムとレイシズム
p11 人種、非自由主義、中欧
誰が想像しただろう?ある村にサッカーが
飛び抜けてうまい少年がいた。 だがプロになるほどうまくはない。(そこで
良い大学に入学したが、セレブな 出身の同級生とうまくいかなくて、政治に
首を突っ込み出し)、結局自分の ような冴えない家庭出身の友人たちと政党
フィデスを結成した。 やがて奨学 金をもらい、オックスフォードに留学。
しかし居場所がなく中退 し、 ブダペストに帰ってみると、共産主義体制は
自己解体の真っ最中だ。 解体が 終わると、フィデス党は選挙に勝ち、次に
負け、つぎに 「非リベラリズム」 運動として返り咲く。「リベラル」と
「グローバリズム」が敵の名となる。
それはワシントン、ブリュッセル。、 ブダペスト、世界の背後で糸を引く
金満家たちの共犯ネットワークだ。 これはユダヤ人を批判する犬笛か、
と指摘されると、「ユダヤ人を非難して いるわけじゃない」と答える。
イタリアのベルルスコーニと夕食を共にし、 ドナルド・トランプとも彼の
楕円のオフィスで暖炉を囲む。 オルバーン・ビクトルは故郷の村
フェルチュートで地元の誇りだ。彼が建て てくれた世界レベルのサッカー場
はみんな大好きだ。ブスカーシュ・ アリーナは、3500人収容、村の人口の
ほぼ2倍だ。スタジアムについている 高級ホテルには税金3500万ドル近くが
注ぎ込まれたという。 19世紀の革命の闘士ラヨシュ・コシュート(半分
スロヴァキア人、半分 ドイツ人の血筋。今ではハンガリー外ではほぼ忘れ
去lられている)、 作曲家フランツ・リスト(ただし育ったのは国外)以来、
オルバーン・ ヴィクトルほど話題になるハンガリー人はいない。人口1000
万、GDPは(金満家) ジェフ・ペゾスの収入の半分過ぎない東欧の小国の首相
として、 オルバーン は、リベラルな民主主義に対する世界的な破壊行為の
最前線に しっかり陣取 っている。ウラジミール・プーチン、レジェップ・
エルドウアン、 ジャイール・ボルソナーロ、ドナルド・トランプとともに。
p74 反スラヴ主義、ドイツ人対スラヴ人 ーー 実際、農奴制は、東と西を
分つヨーロッパ史の項目の一つと言ってよい。 だが「東欧主義者」(東欧と
いう概念はかなり最近、冷戦時代に生まれた。
冷戦時代に東側だった地域を指す)たちは二つの文明の間に想像上の鉄の
カーテンを引き、強制労働は東側だけで行われ、西側では行われていないと
考えてしまう。(しかし、実際は)中欧すなわちドイツ東部(プロイセン)と
オーストリアは、東西の中間あたりを占領し、農奴制を敷いた。 中欧の
農奴 制は、奴隷制に似ていた。社会歴史学者マヌエラ・ポアツカ によれば、
この どちらも、西欧で農産物の需要が増えていったことへの反応 である。
産業 革命が加速し、ヨーロッパ西部で東部よりも急速に人口が 増えたこと
から、 またヨーロッパ東部に穀物生産に適した広大な土地が あったこと
から、 東部の領主は、海外のプランテーション領主のように、 新たに登場
しつつ あったグローバルな農産業に、強制労働を組み込むことに 同意した
の で ある。東欧では、西欧で起こっていたこと(農奴制の廃止など) とは
対照的 に、小作農集団は自由を失っていった。この視点によれば、農奴 制が
より 一 般的に行われていた西から、それほど行われていなかった(小作農
たちが 共同 で土地を所有していたこともあった)東に向かって移動しただけ
で ある。 だが実際には、ボアツカによれば、それは「労働の植民支配」
で ある。 領主と農奴のローカルな関係ではなく、生産、交易、そして 奴隷
制も 含む、 グローバルな搾取のネットワークの一部分だ。 ロシアの農奴制
は、 開放され てからの方が悲惨な運命をたどった。 なぜなら領主たちは、
農作物 を さまざまなやり方でより強力に管理できる ようになったからだ。
一方 小作農 たちは、産業革命が遅々として進まない 帝政ロシアで、工業労働
者に なる こともできず、貧窮と失業が悪化する 中に取り残された。同様の
「ネオ農奴 制」の発達はルーマニア、ポーラン ド、スロヴァキア、 ハンガリ
ーの東部で は19世紀に産業革命が次第に導入 されたため、ロシア で見られ
たような大衆 の惨状は見られなかった。 スメタナやドヴォルザーク の
オペラで明るく楽し げに描かれる村人たちは、 トルストイやゴーゴリが
描く、大農園で苦しみに 呻く登場人物とは 天と地ほど違う。 西欧人の頭の
なかに、この、東欧と中欧を無批判に同一視し、それと西欧を 明確に分け
る、想像上の境界線が明確に存在した事実はなく、代わりに存在 したのは、
北西ヨーロッパを頂点とし、北から南、西から東へ向かって 下がってゆく
「威信の物差し」である。 この威信の物差しを、本書では「白さ(白人性)」
と呼んでいいだろう。 西から東へ伸びる軸上で、完全な「白さ」はロシアに
向かうにつれて、 段階的に減っていくとされた。だが中間地域もあった。
ドイツは イングランドと共に「テユートン」人種で括られたが、東部では
「スラヴ 人」と混ざっていた。中欧のスラヴ人とハンガリー人は、 ドイツ
文化、 そして共に暮らす何百万ものドイツ人と繋がっていた。 ーー第二次
世界大戦 勃発後、無惨に民族浄化されるまではーー。 東の方では、中欧の
人々は、 スラブ人種である、または身体的な類似が ある との理由で、ロシア
人と 結び付けられていた。 フランス人は、チェコ人と ロシア人を大して
区別しな い。ロシア人は フランス人とイギリス人の違いに はほとんど気づ
かない。 東欧が西欧を知っているのに対し、西欧は東欧を知らないという
ことだ。 この差異のグラデーションを破壊し、「東」「西」という唯一の
対に 帰して しまったのは、冷戦の仕業だ。そして現在もこの十把一絡げは
続いて いる。 学術界も、巷の言説と一緒になってこの二項対立を強化して
きた。 そして それは西欧資本の利益に与すると同時に、西欧における
「東欧」 主義的な レイシズムと、中欧の怒りに油を注いできたのである。
この「東への見下 し」のグラデーションには、軽い優越感を味わう喜び以上
のものがある。
階層だけでなく、人種または民族による分断を作るのは、 資本主義の本質で
ある(トーマス・C・ホルトの格言「人種とは黒人が持つ もの、民族性とは
白人が持つもの」を思い出してほしい)。ドイツ人とスラヴ人との競り合い
は、19世紀、ドイツ人が国民意識を 発達させ、ドイツ人が新国家を建てるに
つれて激しさも増していった。 (中略)
p 98 第一次世界大戦以前ーードイツ版の中央概念 ミッテルオイローパ(中欧)
はナポレオン戦争後に生まれた概念である。 (ナポレオンは解放したドイツ
各州に、各種の自由を導入したが、中欧の 人々の中には、フランス政府の
傲慢な優越精神に憤慨する人々もいた。 一方、ロシア軍がナポレオンを
破ってドイツを解放すると、ロシア政府は フランスによって進められようと
していた自由主義的な諸改革を粉砕し、 そのことに憤慨するドイツ人も
多かった) この時期、ドイツの詩人や哲学者たちは歴史を、民族国家
(エスニック・ ネーションズ)や「民族=国民」を主役とする劇場ととらえ
始めていた。 新興のドイツ民族=国民運動が望んでいたのは、ヨーロッパ
大陸の大西洋岸 諸国とロシアの間に位置するドイツ人が次の幕で主役になる
ことであった。 その第一歩として、当時、存在していた数十に及ぶ独立した
ドイツ諸州が 統合されなければならなかった。 しかし、ドイツの統一を夢見
る人々にとって一つの深刻な問題があった。 統一されたドイツを率いるのは
誰なのか。そしてその国境はどうなるのか。 1805年にナポレオンによって
崩壊させられたドイツ系の神聖ローマ帝国の 中で、リーダーシップを有して
いたのはハプスブルグ・オーストリアで あった。ドイツを統一するという
プロジェクトにとって、オーストリアに よる統治は問題含みであった。
というのも、当時のオーストリアには、 現在のポーランド、イタリア、
ルーマニアの一部と、現在のチェコ、 スロヴェニア、クロアチアの全土が
含まれていたからである。さらに オーストリアが支配していたハンガリー
王国は、現在のスロヴァキアの全土 と、ルーマニア、セルビア、ウクライナ
の一部を包含していた。ハプスブルグ 帝国のドイツ系臣民は、ベルリンや
ハンブルグ、ケルンの人々のように、 生粋のドイツ人であると考えられて
いたが、実際にはオーストリアを 構成していたのは全くと言っていいほど
ドイツ人ではなかった。それなの に、どうやってオーストリアは統一された
国民国家としてのドイツを導く ことができるのだろう。 (第一次世界大戦
中、かつてはライバルであったプロイセンとオーストリア の間に戦争同盟を
もたらしたミッテルオイローパ構想は、プロイセンにとっ て、より大きな
中欧という版図をあたえ、一方ハプスブルグ帝国に忠誠を 誓う多くの
非ドイツ系貴族にとっても、同盟によって、自らの民族としての 諸権利が
守られ、ドイツ人のドイツ至上主義を他民族に押し付けようとする 力が
弱まる、と期待した) 戦時中のミッテルオイローパに関する考え方の中には、
中欧は西欧以上に ヨーロッパ固有の諸価値を守ってきた、とする主張が
あった。 フリードリヒ・ナウマンはザクセンのプロテスタント牧師であり、
リベラル 社会学者、リベラル派の政治家であり、さらには影響力のある
マックス・ ウエーバーの友人でもあった。ナウマンの著書「中欧論」は、
多くのドイツ 国民にとって同盟国の勝利が確実視される時期に出版され、
大きなt 成功を収めた。「ミッテルオイローパはドイツという中核を有し、
常に ドイツ語を用いる」とナウマンは述べ、ドイツの指導力が生み出すで
あろう 新たなタイプの人間像を夢想さえした。ナウマンいわく「文化と力の
あらゆる要素を含み、ドイツ民族を中心に成長する、豊かで多様な中身を
伴う文明の担い手である中欧人が形成される可能性を秘めている」
ミッテルオイローパの熱狂的な提唱者であるヴィルヘルム・シュヴァーナー
は、「今こそ新たなドイツが出現しなければならない!」と叫んだ。
「今こそ新たなドイツが主導する欧州合衆国が出現しなければならない!」
ドイツ語を話すオーストリア人にとって、ミッテルオイローパ構想は、
合理的な妥協点であった。彼らは多民族からなるハプスブルグ帝国に 残る
ことになるが、想定される中欧ではドイツによる支配が確立される はずで
あった。ドイツ語話者のオーストリア人ルドルフ・シュタイナーは、 神秘
主義者にして哲学者、教育者であった。シュタイナーは現在、世界規模 の
ネットワークを有するウオルドルフ学校をはじめとする「シュタイナー
教育」の創始者として最もよく知られている。シュタイナーは各宗教の 枠を
越えた「精神性」と科学の融合を目指すなかで、当時、メンバーとして 参加
していた神智学運動から絶大な影響を受けていた。神智学は、ロシアの
神秘主義者ヘレナ「マダム」・ブラヴァツキーによって創設され、第一次
世界大戦期はフェミニズムおよび社会主義に共鳴する英国女性アニー・
ベサントが率いていた。かつて同学を率いていたマダム・ブラヴァツキー と
同じように、自分も南アジアのスピリチュアル系の指導者と交流があると
主張していた。彼女はまた、英領インドの自治を提唱するインド国民会議 の
創始者の一人でもあった。第一次世界大戦が始まると、ベサントは イギリス
の大義を擁護し、ドイツの大義を否定した。このことによってシュタイナー
は神智学と訣別することになった。ベサントの「西」と ブラヴァツキーの
「東」の間に位置するミッテルオイローパの文化勢力 としてのドイツに
ついて、それまでドイツ語では文明を指す言葉としては ほとんど用いられて
pいなかった「東欧」(オストオイローパ)ということばが、 シュタイナーの
著作に現れるようになった。シュタイナーにとって、 「東欧」とは主に
ロシアを指し、この領域からはドイツ人、スラヴ人、 ハンガリー人、
ルーマニア人を含むミッテルオイローパが除外されていた。 歴史は神秘
=オカルトに関する知識が展開してゆく過程であると シュタイナーは考えて
いた。シュタイナーにとって、ヨーロッパが数世紀に わたって経験していた
のは、「オカルト的展開」であった。シュタイナーの 言う「ポスト環大西洋
文明の第五段階」は15世紀に始まり、 アングロサクソン文化が支配して
いた。この文化は明晰な合理性を有して いるものの、あまりにも物質的で
あるがゆえに神秘=オカルトの精神的側面 を理解することが難しい。これに
対してロシア文化は徹底した精神性を 有しているものの、そうした精神性を
直感的に触発する潜在意識を明確に 表現することができずに混乱している。
この点で、ドイツ観念論哲学に おいて表現されたドイツ精神は明確であると
同時に精神性を有している ことから、西欧と東欧を仲介することができると
シュタイナーは考えて いた。来るべきポスト環大西洋文明の第六段階では、
西欧の物質主義を正す ものとしてのロシアの精神文化がその重要性を増す
だろう。しかし、この プロセスを成功させるには、ドイツによる仲介が必要
とされる。こうした ドイツの仲介的な役割を表す地理的な比喩こそが
ミッテルオイローパ であった。この地域の非ドイツ系住民については
シュタイナーはなにも語ら ず、非ドイツ系住民のことをドイツ文明の中枢に
打ち立てられた中欧の周辺
に位置する取るに足らない存在とみなしていた。
19世紀にナショナル意識(民族=国民的「復興」または「覚醒」)が中欧を
席巻するまでは、ドイツ人とスラヴ人の区別は、民族性というよりも階層に
基づくものだったろう。町の住人は、ドイツからの入植者がもたらす
ドイツ 語他ドイツ文化に同化して「ドイツ人」になった一方、田舎に住む
家族は スラヴ人の伝統を守り続けた、というふうに。ドイツ化の波は町から
田舎 へ、特にドイツの近辺へと広がった。 しかしながら、19世紀後半には
まだ ソルブ人、ルサチア人、あるいは ヴェンド人の名で知られるスラヴ系の
人々 が、ドイツ人と隣り合って 暮らしていた。今日では2〜3千人しか残って
いな いが。
ハプスブルグ帝国では、1780年から1970年まで統治した(そして
モーツアルトを召し抱えた)ヨーゼフ1世がドイツ化を押し進めたのだが、
自分を近代啓蒙主義的な統治者だと夢想した彼はできうる限り政府を中央
集権化した。多言語が入り乱れる帝国で、ドイツ語を政府の共通語と定めた
彼の近代化政策は、帝国の官僚主義をかつてないレベルまで高めた。
ポーランド語の話者たちは、田舎の出身者も含めこぞって政府の仕事に 応募
した。とはいえ、彼らの話すドイツ語には訛りがあっただろうし、 ドイツ的
とは言えない振舞いもしただろうから、政府高官への道は険しく、 役人同士
の間の差別に対する憤りが、ハプスブルグ帝国内でのスラヴや ハンガリー人
のナショナリズムの源に、少なくとも部分的にはなったと 考えてもおかしく
はないだろう。 ナショナリズムの思想そのものは、ドイツ に由来するもので
ある。 ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744〜1803) の影響力は特に
よく 知られ ている。ヘルダーは「歴史は舞台、国民が主役 である」と
いう、18 世紀末の いわゆる「前ロマン主義」に始まる思想の 形成に大きく
関わったと され る。ヨーロッパに立ち並ぶ無数のドイツ語圏 の公国を基
lに、統一された 国民国家を形成すべしという要求が高まって おり、
ヘルダーはこのこの動き に大きな影響を及ぼした。しかし今日の ポーランド
の小さな村に生まれlた ヘルダーは、スラヴ人やハンガリー人への 共感も
抱いており、チェコや ロシアの誇り高きスラヴ人からも尊敬された。
ロニー・ジョンソンがその 著書「中欧」で言うには「中央のナショナリズム
に中欧特有の アレンジメントを加えた思想家を一人だけ挙げるとすれば、
ヨハン・ ゴットフリート・ヘルダーだろう」ジョンソンは次のように言う。
ーーヘルダーは、古代スラヴ人を「慈悲深く、過剰と言えるほど厚く、人を
もてなし、独立心に富み、しかも忠実で法を尊び、略奪や盗みをさげすむ」
と褒めた。しかしスラヴ人はドイツ人と、東からのさまざまな脅威に位置
する不運の中にいる、として、「これらすべての美徳は、抑圧に対して 何の
役にも立たないどころか、抑圧を助長してしまった」ヘルダーは、 (自身は
ドイツ人であるにもかかわらず)独裁的なドイツ人の犠牲になった。
平和を愛する、原・民主主義的なスラヴ人という考えをひろめた。 結果とし
て 彼 は、スラヴ人が自らの歴史を、ドイツ人の侵攻ーーついに 古代スラヴ
人の 自由を奪ったーーに対する民族的苦闘として振り返るように なるのに
決定的 な役割を果たした。彼はまた、「かつて幸福で 働き者だった、今は
埋もれた 人々」が、「長く無気力な眠りから醒めて 立ち上がり、「束縛の鎖
から解放 される」日が来るのをまぶたに描いて いた。 「小作農」と「未開
人」という (野暮くさい、垢抜けない、愚鈍な、 信用 ならない)ラベルは、
「東欧」主義 者の偏見によって「すべての」東欧の 人々、またすべての
スラヴ人に 貼り付けられている。小作農のキャラクター を東欧の人々に
貼り付けたいと いう願望は、おそらく西欧の「中の下」層 と 上層労働者の
「また小作農に なり下がるのはごめんだ」という不安の現れ である。
スラヴ人の小市民が 興隆し、農奴制が衰退するにpつれ、都市の住民 が
ドイツ 語を身につけると いうことも流行らなくなった。これはスラヴ人の
「民族と 国民復興の」重要 な一歩であった。 しかし、ドイツ人からの独立
が、スラヴ人の間でようやく 本気の現実的な 選択肢と考えられるように
なったのは、第一次世界大戦で ドイツおよびオーストリア=ハンガリーが
敗北してからだ。 西欧の同盟国は しばし躊躇したものの、ドイツを弱体化
させるため オーストリア= ハンガリーを解体し、スラヴ人やハンガリー人の
ナショナリストたちを勢い 付けて安全な独立を選ばせることを決定した。
このナショナリストたちの 要求が、(おそらくポーランドを除いて)概ね 穏健
だったからだ。だが政治的 統治における分割(オーストリアとハンガリー の)
は、しばしば一部のドイツ 人の欲望を招いた。自国民の生活空間(人口に
見合った広い領土が与えられる べきだとする)を探すドイツ人たちは、占領
したい土地から、スラヴ人を 文字通り追放する欲望を抱いたのだ。 ドイツ人
とスラヴ人の差は、過激論者 によって露骨な人種用語で語られる ように
なった。ヒトラー政権下のドイツ の人種政策は、文化的のみならず、 究極的
には物理的に、白さが足りない 人間を除去することを目論んだのだ。 この
レイシズムの憎悪の嵐をまともに 受けたのは、主としてポーランド人 だ。
ドイツによる冷酷非道な占領で、 何百万ものポーランド人が非業の死を 遂げ
た。戦時中のドイツは、スラヴ系 のスロヴァキアとクロアチアでは、
ファシスト傀儡政権と同盟を組んで いた。チェコ人はというと、「ボヘミア
・モラヴィア保護領」と呼ばれる、 ドイツ領とされる国境地帯を除く限定
地域で自治を与えられた。抑圧による ひどい出来事はあったもののチェコ
人、スロヴァキア人、クロアチア人は、 フランス人ら西欧の人々よりも
ひどく扱われたわけではなかった。 「東部 総合計画」と呼ばれるナチスの
秘密計画は、多数のスラヴ人を絶滅 または 追放し、他の民族を強制労働に
就かせようとするもので、戦時中には 実施が 始まったばかりだった。しかし
そこから明らかになったことは、 長期的な ドイツの政策では、アキーユ・
ムベンベが言う「共同墓地」、 つまり一ー 民族を物理的に滅ぼすか、または
少なくとも独自の文化を奪う ことを目指し ているということだ。この場合、
目標はスラヴ人をドイツ人に 置き換える ことだった。アメリカ大陸、
アフリカ、オーストラリアで白人 入植者が 先住民を立ち退かせたように、
「東部総合計画」もまた、領土を 搾取せんと する欲望に駆られていた。
lそれは「他者」を、法や人間的共感に 基づく保護 から引き剥がして丸裸に
し、隷属させるため、人種を利用した。 ドイツ人 たちは、南西アフリカの
植民地(第一次大戦敗戦まで所有していた) で先住民 を残酷に扱った経験から
大量虐殺を学んだと言われる。また、 スラヴ人を 領土から立ち退かせたりす
るというドイツ人の計画は、何万もの イタリア人 をアフリカ、特にリビアに
定住させようという、、ムッソリーニ 政権の政策 からヒントを得たと考え
ーられている。
🦊 ここで映画好きらしい著者は、西欧対ロシアの描き方の典型を、
ジェームズ・ボンドシリーズに登場する東側スパイや寝返り者の 面白い
キャラクターを例にとり、西欧と東欧を明確に分断しようとする 西側の
政治 的意思がそこに反映していると言う。残念だがそこは割愛。
p97 こうして中欧人は何度も中欧人になった
(1945年のヤルタ会談以降、ソ連の支援を受けて西欧の植民地が分離独立
しつつあったこの時期には、東西が平和的に協働する可能性がまだあった。
しかし1989年、ベルリンの壁崩壊後は、「東欧」を巡る西欧とロシアの
覇権争いは激しさを増した) ソ連崩壊後は、中欧は西欧とEUの自由主義的
民主主義に加わったという 建前にもかかわらず、想像上の鉄のカーテンは、
引かれたままだった。 それは西欧資本主義が中欧の資本家と競い、中欧の
労働者や消費者の利害を 無視する形で、中欧を安価な労働力の源、かつ
魅力的な市場として確保し 続けたいというニーズを持っているからで
ある。…… 私は中欧を理解するにあたり、中欧におけるドイツ人、ドイツ語、
そして ドイツ的な民族追放の概念が極めて重要であることを(本書において
も) 示したつもりだ。これらを歴史的記述から除外することは、戦後の中欧
からのドイツ人追放にも匹敵することであり、それはまた東欧についての
記述の大部分から、中欧を消し去ることになりかねない。 共産主義の崩壊と
EUの東方拡大によって、待ちに待った東西ヨーロッパの 統合が行われたにも
かかわらず、これを拒絶する声は、再統合されたドイツ 国内にも響き渡っ
た。今や「新連邦州」と呼ばれるようになった地域(旧東 ドイツに当たる
5州)が、他の地域よりもドイツ的じゃないなどと、戦前には ドイツ国内の
誰一人として思わなかっただろうに。ベルリン、ドレスデン、 ライプツイヒ
は、かつて少なくともフランクフルトやハンブルクと同じ くらい、ドイツ
文化の中心地であった。 冷戦中も、西欧では、東ドイツ人は鉄のカーテンの
間違った側に迷い込んで しまっただけで、西ドイツ人と同じだと思われて
いた。しかし今や東部の ドイツ人すなわちOssiは、他の「東欧の人々」と
同様、文化的に異質な人々 として人種化されるようになった。西部のドイツ
人は、旧共産圏である 東部の同胞を、遅れた、後進的な、恵まれない人々と
見ているが、こうした 認識には「東欧」主義的レイシズムがよく表れて
いる。このようにドイツ性 と中欧性のイメージのオーバーラップは、ヤルタ
会談後に一度消えたが、 今日、小さな、しかしドイツ人にとっては重要な
形 で復活しているようだ。 (中略)
p108 その後、1980年代に入ると、政治亡命者を含む多くの著名な知識人
たちが再び、「中欧」という表現にイデオロギー的な中身を注入するように
なる。彼らが着目したのは、クラクフ、プラハ、ブダペスト、そして とり
わ けウイーンといった言語的多様性を誇る中欧の大都市(メトロポール) で
戦間 期に花開いた文化的ルネサンスであった。そこには、ハプスブルグの
王朝に 対するノスタルジーが明確に表れていた。(それはハプスブルグの時代
が終わ ってその遺跡の上に築かれた国々の多文化性を理想化し、(実際には
単一民族 国家と同一視されている)中欧に対するこうしたイメージを広める
ために、 ドイツ観念論の哲学者、文学者と同じくらい重要な意味を持つ よう
になった のが、ドイツ語話者のユダヤ人の発言であった。 チェコの作家で
後に フランスの作家となるミラン・クンデラは、次のように 述べている。
「ジークムント・フロイトの両親はポーランドの出身だが、フロイト自身は
現在のチェコスロヴァキアのモラヴィアで幼少期を過ごしている。
エドモンド・フッサールやグスタフ・マーラーもこの地で幼少期を過ごし
た。チェコの偉大な詩人ユリウス・ゼイヤーはプラハのドイツ技話者の家庭
に生まれたが、自らの意思でチェコ人になった。一方、ヘルマン・カフカの
母語はチェコ語であったが、息子のフランツ の母語はドイツ語だった。
1956年のハンガリー動乱の中心人物である作家デーリ・テイボルはドイツ 系
ハンガリー人の家系であり、私の親友にして優れた小説家ダニロ・キシュ は
ハンガリー系ユーゴスラヴイア人だ。各国を代表する人物だけを取り上げ て
みても、なんと多くの国の命運がからみあっていることだろう。 そして
何より、今あげた名前はすべてユダヤ人の名前である。世界のどの 地域と
比較しても、ユダヤ人の天才たちの影響がこれほどまでに深く及んで いる
地域はない。どこの土地でもよそ者でありながら、どこの土地をも故郷 と
し、民族=国民的(ナショナル)な争いからは距離を置く20世紀のユダヤ人
は、中央における主要なコスモポリタンであり、「民族=国民」(ネーション)
を統合する主要な要素であった。彼らは中欧の知的な接着剤であり、中欧の 精神の凝縮版であり、中欧の精神面での統一を生み出し、躍進する存在で
あった。」 クンデラは、初期のミッテルオイローパの提唱者と同じように、
中欧を 西欧 文明の中核に据え、これをロシア的東欧と対置した。共産主義下
で 育った 世代にとって、「中欧」とは結局、西欧人ではなく東欧人として
扱われる という屈辱そのものであった。彼のエッセイ「中欧の悲劇」は、
フランス語 原題を「誘拐された中欧、あるいは中央の悲劇」という意味 で
ある。誘拐犯 は共産主義のロシアであった。誘拐の首謀者である ヨシフ・
スターリンは、 西側諸国民をそそのかして中欧を貰い受けたが、 それは
被害者の同意無しに 一方的に行われた暴力行為であった。 クンデラによる
と、 「ヨーロッパは 常に二つに分かれて発展してきたが それは現在使われ
ているような西欧と 東欧という意味ではない。 一方では古代ヨーロッパと
カトリック教会が、 他方ではビザンツ帝国と 正教会がそれぞれ結びつきを
強めて、1945年 以降、二つのヨーロッパの 国境は、数百km西方に移動
した。そして、これま で自分たちは西欧人だと 考えていた幾つかの国が、
目覚めると突如として 自分たちが東欧にいること に気づいたのである」
「西欧の東の境界」である中欧は、東欧へのこうした誘拐に憤り、抗って
きた。中欧はいつでも「小さいけれども最もヨーロッパ的なヨーロッパで
あり、「最小の空間に最大限の多様性を与えるという一つのルールに 従って
構想されたヨーロッパの縮小モデルでありたいと常に考えてきた。 最大の
空間に最小限の種類という正反対の原理で構築されたロシアを 前に、
どうして恐ろしくないなどということがあり得るだろう」 中欧にとって
ロシアは「別の空間イメージ(複数の国家が呑み込まれてしまう ほど巨大な
空間):別の時間感覚(ゆったりとしていて忍耐強い)、別の笑い方、 別の生き
方、別の死に方」を持つ異質の文明であった。 クンデラが見立てている
よう に、ソヴィエト連邦に対する中欧の反乱は、 何よりも西欧文化の担い手
と しての中欧のアイデンティティを求める 戦いであった。人々の
アイデンティティが「消滅の危機に瀕したとき、 文化的生活はより切迫した
もの、より重要なものとなり、文化そのものが 全ての人々を集結させる
生きた価値となる」 とりわけ1956年のハンガリー、1968年の
チェコスロヴァキア、そして1956 年からクンデラがこのエッセイを執筆して
いた時期、そしてその後も、無数 に反乱が続いたポーランドにおいて、彼ら
は中欧というアイデンティティの ために集結した。(中略) クンデラの考え方
では、中欧の悲劇は次のような事実を含んでいる。 それは、中欧が東欧に
誘拐されてしまったこと、そして東欧の人々が 気高く 戦っていたあいだに、
西欧がこの誘拐を既成事実化し、中欧がかつて 西欧の 一部であったことを
忘れ去ったかのように見えるという事実である。 「中欧 pはソヴィエト帝国
の一部に過ぎず、それ以上でも以下でもない」。 悲しい ことに、西欧が中欧
を「東欧」としか見ていないのは、西欧にとって 中欧の 文化がいかに重要な
役割を果たしているのかを理解できていないから であ る。実際、西欧は
みずからの西欧文化をもはや認識できない。というの も、 「ヨーロッパ文化
が自らの文化的アイデンティティを失いつつあるから で ある。 クンデラの
エッセイにおける中欧の人々は、最後の真のヨーロッパ人 で ある。彼らは
消えゆく自らの文化についてヨーロッパに教えようとしなが ら も、自らが
ヨーロッパ人であることを認められるという満足感を決して 得られることの
ない悲劇的な人物である。 過去においてのみ、ある一つの 文化的な次元を
維持する世界においてのみ、 中欧はアイデンティティを 守り、ありのままの
姿を見せることができる のだ。 悲しいことに西欧は、 中欧の反乱を、自ら
に生存を賭けた死に物狂いの 戦いと見なすことなく、 これらの「東洋人
たち」に半ば興味本位に、 蔑視に満ちた哀れみの情を示す のみであった。
「折に触れて私に押し付け られる、「スラヴの魂」の大仰で 空っぽな
感傷!」とクンデラは深い苛立ち を示す。(中略)
p116 「第三の道」の盛衰 (ソ連に対抗する勢力としての中欧という概念を
唱えた「異論派」の指導者 は、クンデラだけではなく、後のチェコスロヴァ
キアおよびチェコの大統領 となるヴァーツラフ・ハヴェル、ハンガリーの
作家ジェルジ(ジョージ)・ コンラッド、ポーランド言論界を代表する知識人
アダム・ミフニクなど が いた。テイモシー・ガートン・アッシュが言うこと
には、中欧は一つの 考え であって、「新たな中欧はまだ存在していない」。
アッシュは異論派 たちの 道徳的な誠実さに尊敬の念を抱いており、誠実さの
価値こそ彼らが 西欧に 教えることのできる最も可能性のあるものだと信じて
いた。 トランプ大統領の誕生が西欧に思い知らせたように、「東欧は
おろか、 西欧 にも」グロテスクに歪められた思想や陰謀論の数々や、
フェイクニュース などが根を下ろしてしまう可能性があり、誠実さを旨と
する西欧の思想家 たちは、最悪の場合、「これらの思想に」敗北してしま う
可能性も視野に 入れるようになった。
p172 半分だけの真実性ーー移民の流入によりこの地域の人口は減っている
ーー 賃金統計は、GDPよりも明らかに、西欧および南欧(スペインと
pイタリア、 ただしギリシアを除く)のグループと、中欧及びその他の
グループ との違いを 示している。(🦊たとえば米国149、スペイン106、
イタリア 100、に対し ワルシャワ(地域)100、プラハ100、、ブダペスト(地域)84、 ポーランド78、 チェコ74………(ロシア51、ウクライナ38)など……
ヨーロッパ の国別、地方別の 年間実質賃金(ワルシャワの平均実質賃金を100
とした時の 値…% 2018年 ) 明らかに、地域内でどれくらいお金が回って
いるのかが 多くのことに影響 している。中欧では相対的に平等主義的な富の
分配がなさ れているにも かかわらず、不釣り合いに多くの富が生み出されて
いるのは 明らかである。 なぜなら、賃金で生活する人でなく、雇用主や
投資家の ところに資本主義が 回帰したからである。
西欧は全体的に賃金が高いので、それが中欧の賃金労働者を外へと押し出し
ている。購買力の違いは、この地を離れることの魅力を高める。
ワルシャワでは、平均的な給与でフランスの一部の地域と大体同じくらいの
ものが買えるかもしれない。しかし、フランスでユーロを稼ぐ方が、
ポーランドでズウオテイを稼ぐよりもいい。物価の安いワルシャワでは、
フランスで稼いだ賃金で、より多くのものを買うことができる。
(そこで、お金を貯めて帰ってくるために、一時的に国を離れるようになっ
た)中欧諸国から出ていく人の多数派が、永久的に出て行ってしまうつもり
は無い労働者である。その数は周知の通り数えることが困難である。
特にEU域内であれば、全てのEU市民に自由な移動の権利が与えられている。
(ポーランド統計局によれば、250万人が国外で働いており、それは
ポーランドの人口4000万人の6%を超える。)
全ての中欧人が、同じようにどこかへ移住しようとしているわけではない。
チェコでは永久的な移民を含め、多くても人口の3%が外国で生活している
ことになるが、それはポーランドよりずっと少ない。しかし、スロヴァキア
では、国内に住みながら隣国のチェコで働いていたり、毎日オーストリアに
越境通勤していたりする。
しかし、どこの国にとっても、人口の3%から6%くらいの人々が外国で
働いているのは厄介なことかもしれない。出ていく人の中に高度に熟練
した職業人や教育を受けた人々がいる場合は深刻になる。スロヴァキアでは
看護婦不足が起きている。
1989 年から2017年にかけて、ラトヴィアでは人口の27%が、
リトアニアでは22・5%が、ブルガリアでは21%が流出した。
東ドイツでは1989年以前の住民の14%にあたる200万人が、職とより良い
生活を求めて西ドイツに移住した。ルーマニアではEUに加盟した2007年
以降の期間だけで340万人が出国したが、そのほとんどが40歳以下の
若い人だったっp
人口減少が国家を殺すのではないかという恐怖が公には滅多に語られない。
それはおそらく国外移住する人々の割合の高さを発表すれば、真似する人が
増えるからだろう。しかし、それにもかかわらず、その恐怖は現実に存在
する。アフリカや中東からの移民が中央・東欧で国家の存続を脅かすという
馬鹿げた主張に、この恐怖が間接的に表現されているのかもしれない。
ブルガリアの人口は、国連の予測によると、2040年までに27%が減少する
という。「ブルガリアは、現代国家の中で、戦争や飢饉以外の要因による
最大の人口減少率を経験している。ブルガリアでは毎日、168人の人口を
失っている。つまり一週間で1000人以上、一年間で5万人以上の人口が流出
していることになる」
推移し続ける人口動態への恐怖が、確かにここにはある。しかしブルガリア
のような極端な人口崩壊は、はっきり言って、中欧では起きていない。
その恐怖の実態は、クラステフとホームズによれば、「同化できない外国人
が入国し、ナショナルアイデンティティを希薄化させ、国民の一体感を
弱めるという恐怖」である。わかりやすく言えば、その恐怖は、主に白人の
民族ないし国民が、有色の移民に置き換えられるという恐怖そのもので
ある。(中略)
p 2:11 イスラム教徒なきイスラム嫌悪?
もしヤン・グロスが指摘するように、イスラム教徒への恥ずべき拒否の根底
に「東欧の」反ユダヤ主義があるとしたら、ユダヤ人とイスラム教徒に対す
る態度にこれほどのギャップは無いはずだ。実際は、チェコの研究者
ズデニエク・タラントが示したように、関連があるとしたら、イスラム嫌悪
の増幅が反ユダヤ主義を増幅させているのであって、その逆ではない。
タラントによれば、極右の反イスラム主義者は陰謀論に惹かれやすく、
かつユダヤ人についても、古典的デマと併せて今日的デマを拡散させて
いるということだ。
ではばぜ、今日の中欧におけるイスラム嫌悪の態度はこれほどあからさま
なのか?その答え探しの手始めに、「イスラム教徒なきイスラム嫌悪」と
いう人口に膾炙した言葉に着目したい。この言い回しは誇張である。
実際には中欧のどの国にもイスラム教徒はおり、人数が少ないだけだ。
つまり中欧におけるイスラム嫌悪を、近所付き合いの摩擦やライバル関係
としては把握しにくい。
p197 中欧に於ける反ユダヤ主義、レイシズム、同性愛嫌悪(フォモフォビア)
中欧の東部諸国は2015年、難民受け入れの割り当て義務 (ブリュッセル=
EUが一方的に決めたもの)を拒否し、非難を浴びた。何世紀にもわたる
ユダヤ人差別を通して染みついた不寛容の精神をイスラム教徒の難民
たちに向けていると言われた。プリンストン大学の高名な歴史家ヤン・
グロスは問うた。「東欧人は恥を知らないのか?」
「ドイツは……戦勝国による非ナチ化政策と、ホロコーストを扇動的に開始し
実行した責任から……自らの血塗られた過去に「とことん向き合う」ほかに
道はなかった。これは長く厳しい道程だった。だがドイツ社会は、歴史上の
過ちに十分思いを馳せ、今日の難民の大流入のような道徳的、政治的困難に
向き合えるようになった。アンゲラ・メルケル首相は移民対応の
リーダーシップの模範となり、東欧のリーダーを恥入らせた。
それに引き換え東欧では、まだ自らの血塗られた過去と向き合えていない。
これができて始めて東欧の人々は、迫り来る悪から逃げてくる人々を救う、
自らの義務を認識できるようになるだろう」
血塗られた過去についてコメントする権利が誰かにあるとすれば、それは
確かにグロスだ。ホロコーストの時代、またその後もポーランド人が行った
反ユダヤ主義的な残虐行為を、ポーランドの民衆に突きつけたのはグロス
だ。収容所を生き延び、自分の家や土地に戻ってきて再びそこに住もうと
したユダヤ人は、ポーランド人の暴徒に襲われた。あるいは戦時中の恐怖
として象徴的なのは、イエドワブネの事件だ。大勢の地元のユダヤ人ーー
推定350人から1600人ーーが地元のポーランド人に虐殺されたのだ。まず
少人数が殺された、納屋の中に埋められた後、他の人々が生きた状態でその
なかに追い込まれた。そして襲撃者らは納屋に火を放ち、閉じ込められた
人々を生きながら焼き殺したのである。
また終戦の解放後、生き延びて戻ってきたユダヤ人に対する大量虐殺の
うち、キエルツエの事件は最もよく知られている。40人以上のユダヤ人が
ポーランドのこの街で命を落としたのだが、理由の中には、中世の「血の
中傷」、即ちユダヤ人がキリスト教徒の子供を誘拐し、その血を過越祭に
使ったと言う告発もあった。これらは特殊ケースだという一般の解釈に正面
から挑み、共産主義レジームの崩壊後、証拠を突きつけたのはグロスの
ような研究者たちだった。グロスは、ユダヤ人を救おうとしたポーランド人
たちについても詳述する一方で、迫害、略奪、殺戮へのポーランド人の
関与は取るに足りないものだとする見解に終止符を打った。
これに対し、「ドイツ人」という語から、第二次世界大戦中のニュアンスが
知らぬ間にどれほどきれいに洗い流されているかを見てみよう。
ホロコーストを騙る際、ドイツ人犯罪者に対し、「ドイツ人の」ではなく
「ナチスの」という形容詞をつけるのは今やお決まりである。こうした
言葉使いはつまり、実際の証拠とは裏腹に、ドイツではナチスだけに
ユダヤ人強制輸送と殺害の責任、または共犯関係がある一方、ポーランド
では誰もがこれに類する罪を負っている、または少なくともその可能性
があることを暗に意味している。
ホロコーストは中欧の国々でそれぞれ異る条件下行われた。チェコの
領土はドイツ人に占領されたが、ポーランドの状況のほうがはるかに過酷
だった。スロヴァキアとハンガリーは、ナチスに協力的なナショナリストに
支配され、独自の反ユダヤ主義的な悪行が行われていた。だがそれは戦争の
終盤、ドイツがそのナショナリストらを信用しなくなり、ドイツ軍部隊が
直接占領していた時のほうがひどかった。
私自身の祖父母(著者はプラハ=チェコの首都生まれのユダヤ人である)が
クレムニチカ村近くで殺されたのもこの頃、1944年の11月である。
クレムニチカ村ではほかにも多くの人、主にユダヤ人とロマが、対戦車用
の塹壕の中で銃殺された。(🦊 ドイツ政府による公式の謝罪と、
ホロコースト被害者へに手厚い待遇に比べて、虐殺を指揮したナチスの
犯罪者等への追及は西ドイツにおいては極めてゆるいものであり、戦時中の
スパイやナチス協力者らは易々と南米や旧共産主義国へ逃れ、ユダヤ人から
強奪した資産で裕福に一生を終わった者もいた。著者の祖父母を殺害した
ドイツ人もその一人であったという)
移民反対のレトリックについては、長期的にはどのみち効力が無くなると
予想できる。(願わくは)所得の向上と、高齢化が相まって、中央において
移民は否応なしに必要になる。
一時的には団結を見せた「西」も、2022年冬には挑発を受けた。
ロシアによるウクライナ侵攻は、ヨーロッパと世界を叩き起こし、ドイツと
ロシアのあいだに暮らす人々がまたもや国際的な乱暴者の標的になったと
いう事実を突きつけた。中欧の人々は思い出すのだ。「西」は助けに
来てくれなかった。自分たちだけでなく、「西」の敵でもある、対戦相手の
勝利を防ぐために、十分な武力を持ってきてくれなかったと。
2022 年という年は、「西」がヨーロッパの仲間を侵略者から救わなかった
年の年号リストに追加された。もし攻撃されたのがフランスやイタリアと
いった「本物の」西欧の国だったら、おそらくこの戦争(=核戦争)は現実に
なっていただろう。もしかしたらNATO加盟国であるポーランド、チェコ、
スロヴァキア、ハンガリーが侵略された場合はどうか?たしかに「西」の
同胞との完全なる連帯は、中央のメンバーたちに拡張されている。
しかし究極の危機的状態になったら、その完全なる連帯が、またもや
白人のためだけに取っておかないだろうか?そんなことはない、とは
どうしても確信できないのだ。
実際なぜ、ウクライナはNATO のメンバーではないのか?2022年になって
ウクライナを加盟させようとしても当然遅すぎた。しかしもっと早く、
他の中欧諸国とバルト三国が加盟した時点で、ウクライナをNATOに入れ
なかった理由は、ロシアからの圧力だけだろうか?それと文化的、言語的、
宗教的に、白人の中で最も白くないロシアと類縁関係にあるために、西欧
らしさが足りない、西欧らしさがたりないと想像されていたこともあると
言えないだろうか?
おそらく西欧は中欧を、対抗者ロシアの目論見から護りつつも、「西」の
特権の中心部から引き離し続けるだろう。この搾取のロジックによって、
中欧が西欧圏の内であり外でもあるという、逆説的な状況は続くだろう。
欧州委員会委員長(当時)ジャン・クロード・ユンケルは言った。
「東と西、ヨーロッパは両方の肺で呼吸しなければなりません。さもないと
われわれの大陸は呼吸困難に陥ってしまうでしょう」
だが、「別物だけど平等」という決まり文句が、平等をもたらしたことなど
一度もない。むしろその逆である。
私には、これとは別の臓器、心臓のメタファーの方が、ふさわしく思える。
つまりヨーロッパを、そして世界を、鼓動する一つの心臓だと想像して
みるのはどうだろう。
私たちに必要な団結、連帯感、よそ者への共感をより鮮やかに浮かび上がら
せてくれるように思える。
ただ残念なことには、今はこの想像もただの切なる願いに過ぎないが。
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🦊 「世界のどの地域と比較しても、ユダヤ人の天才たちの影響が
これほどまでに深く及んでいる地域は「中欧」の他にはない。」
世界のどこの土地をも故郷とし、民族と国民的な争いから距離を置く、
「20世紀のユダヤ人」、その誠実さへの讃歌とも言える本書だが、
一方、イスラエルに住むユダヤ人の明らかなレイシズムと徹底した
「軍事優先」主義の「21世紀のユダヤ人」は、同じユダヤ民族なのかと
不思議に思わずにはいられない。
ホロコーストの記憶は、彼ら自身を分断してしまったのだろうか。
それとも……………
🦊🦊🦊🦊🦊🦊
「キツネと遠近両用めがね」の 4つのサイトをご案内します。
1️⃣ <昔の日本人はカッコ良かったって本当?>
https://kitunemegane.simdif,com
2️⃣ <死の飴玉を売る人たち>
https://kitunemaeda.simdif.com
3️⃣ <雑草園の根っこ戦争>
4️⃣ <青空は誰のもの?
どうぞよろしく